アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

偉大なソフィスト・プロタゴラスの命題「すべてのものについて、人間が尺度である」について: 大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集 10

プロタゴラスはほかのソフィストと違って、たんなる教養豊かな教師にとどまらず、深遠な、徹底的な思想家であり、全く普遍的な根本観念に思いをいたした哲学者でした。

かれは知の中心命題をこう表現しています。「すべてのものについて、人間が尺度である。あるものについてはあると言うことの、あらぬものについてはあらぬことの尺度である。」これは偉大な命題です。

ものごとを普遍的に明確化する思考の働きが尺度とよばれ、万物の価値の基準とよばれます。

ただ、人間が尺度だというプロタゴラスの発言は、正しく理解すれば偉大な言葉ですが、人間というものが不明確で多面的な存在であるのに見あって、あいまいさをもつことばでもあります。

すなわち、(α)各人が特殊な人間ないし偶然的な人間として尺度になる、という理解と、(β)人間がみずから意識する理性が、つまり理性的な本性と普遍的な精神性をもつ人間が絶対的な尺度になる、という二様の理解が可能なのです。

前者のようにとれば、すべての我欲、すべての私利が、つまり、利害にとらわれた主観が、世界の中心におかれる(そして人間が理性の側面をもつとしても、その理性すら主観的なものに、そして人間も主観的なものになる)。が、これはまちがった、さかだちした理解のしかたで、この誤解から、ソフィストは偶然の目的をめざす人間を基準にしたとの常套的な避難があびせられますが、—じつは、ソフィストにあっては、主観の個別的な利害と実体理性的な利害とが区別されていないのです。

人間が尺度だという命題はソクラテスプラトンにもあらわれますが、そこではもっと厳密に考えられていて、普遍的内容を思考する人間が尺度とされます。

ともあれ、プロタゴラスの命題は強大で、以後哲学史はすべてこの命題をめぐって展開します。哲学の今後の進行は、理性が万物の目標になるという意味をもちますが、この進行はプロタゴラスの命題の意味をあきらかにするものでもあるのです。

さらにまた、プロタゴラスの命題はものの見方を大きく転換させ、すべての内容、すべての客観が意識との関係なしには存在せず、思考こそがすべての真理にとって本質的な契機をなすことをいっている。

つまり、絶対的なものが思考する主観性という形式をとるので、それはソクラテスでとくに強調される。

人間が万物の尺度である、というとき、人間とは主観一般のことで、いう意味は、存在はそれだけであるのではなく、私の知にたいしてある、—いいかえれば、意識がかならずや対象のうちにはいりこんで内容をつくりだす、主観の思考がそこで本質的なはたらきをしている、ということです。

(これは最新の哲学のおよぶ考えで、カントによれば、わたしたちは現象しか知ることはない、つまり、客観的な実在としてあらわれるものは意識との関係においてのみ観察され、この関係なくしては存在しない、というのです。)

重要なのは、主観がものごとを明確にするはたらきをなし、内容をうみだしていくという第二点です。そこで問題となるのは、内容がどのように明確にされるのか、つまり、意識の特殊性によりかかったままで内容が明確にされるのか、それとも内容が普遍的なものとして客観的に明確にされるのか、ということです。

神もしくはプラトン的善は思考の産物であり、思考がうちたてたものですが、同時に絶対的に存在するものでもあります。

わたしが確固たる永遠の存在として承認できるのは、内容からして普遍的なものだけで、それはわたしがうち立てたものでありながら、わたしからのはたらきかけがなくとも、それ自体、客観的な普遍性をもってもいるのです。

 ヘーゲル哲学史講義」第二章 A ソフィストの哲学 1.プロタゴラス長谷川宏訳)

書き出していたら、こんなに長くなってしまいました。特に最後尾二つのスタンザが欲しかった。シュタイナーは、哲学は古来秘儀参入者が語るものと述べていますが、井筒俊彦によれば、プラトンも、ソクラテスも、アリストテレスさえ、神秘哲学者であった。つまり、超感覚的世界を知る人々であった。

ヘーゲルは、若き日、エレウシス秘儀についての美しい長詩を書いたが、その後、この「西洋哲学史」のなかでは、古代ギリシャの秘儀は形式的なもので、内実をもっていなかったという否定的な見解を述べている。霊を求めて、結局、ヘーゲル自身は、「霊」に出会うことができなかったのでしょう。それは、18世紀初頭におけるヨーロッパ知識人の宿命でもあった。

ただ、注意すべき点は、この講義録は、弟子が講義ノートをまとめたものである点である。カントは、霊視者スエーデンボルグを出版物の上では否定していたが、講義や私的な手紙では大いに評価していた。ヘーゲルが、学生の前ではギリシャ古代秘儀を否定しながら、自己の内面の世界では、若き日の憧憬を大事にしていなかったとは限らない。

なぜなら、虚心坦懐にこの「西洋哲学史」を読む限り、ヘーゲル古代ギリシャ哲学の捉え方は、シュタイナーや井筒の立ち位置と根本において変わるところがないから。特にそれを感じる部分を赤字で示しました。