アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ソフィストとしての現代日本知識人:大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集 7

同時にしかし、形式について−いや、内容についても−いえば、近代の教養ないし啓蒙は、ソフィストとまったくおなじ立場にあります。

ソフィストの立場とソクラテスプラトンのそれとを比較すると、ソクラテスが美、善、真、正を個人の目的や使命だというのにたいして、ソフィストはこれらを最終目的とすることはなく、最終目的は個人が勝手にきめることのできるものだと考える。

この考えがプラトンに反駁されて、ソフィストは大方の不評をかうのですが、非はソフィストにあります。

また実生活面でも、ソフィストは大資産家となり、大いにうぬぼれ、ギリシャを遍歴し、一部はとても贅沢にくらしていたことが知られています。

理屈並べの思考とプラトンとを比較したときにとくにめだつのは、理屈並べの思考が人のなすべき義務をみちびきだすのに事柄を過不足なくとらえた上でどうすべきかを考えないで、外面的な理由にもとづいて正と不正、利と不利を決定する点です。

ソクラテスプラトンでは、事態のありようを観察し、事柄を全面的に過不足なくとらえることが主眼となります。ソクラテスプラトンはこうしたとらえ方を、あれこれの視点や理由を出発点とする観察に対置しようとしましたが、視点と理由は常に特殊で個別的なもので、概念とは対立するものなのです。

ちがいを一言でいえば、ソフィストたちが教養ある理由付けを本領とするとすれば、ソクラテスプラトンは精神が自己のうちに永遠に見いだす確固たるもの−普遍的概念(プラトンイデア)−によって思想を確定したと言うことが出来ます。

 ヘーゲル哲学史講義」第二章 A.ソフィストの哲学(長谷川宏訳)