アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ヘーゲルにとって、自信に満ち溢れる西欧近代の原理とは、あくまでもキリスト教霊性主義であった。:大日本三千年紀研究會のためのコラージュ集 6

近代のヨーロッパ世界では、教養が精神的な(霊的な:引用者)宗教を楯とし、前提としているために、事情は全くちがう。

ギリシャの空想的宗教とちがって、近代のキリスト教では精神の(霊の)永遠の性質に関する知識が前提となっていて、人間の絶対的な最終目標ないし使命は、精神として(霊として)現実に存在し、精神から(霊から)精神的な(霊的な)使命を受け取り、精神と(霊と)一体化することにあるとされる。

ここには確固とした精神的原理(霊的原理)が基礎を成していて、それが主観的精神の要求をも満足させ、また他方、義務、法律、等々の社会観念もすべてこの絶対原理に基づいて決定され、それに依存している。

だから、ギリシャ人やギリシャに教養を広めたソフィストの場合のように、教養が多方向に分散したり、ときには方向を失ったりすることはない。

ところが空想宗教が信奉され、国家の原理が未発達な古代ギリシャでは、教養が多くの視点に分散し、いとも簡単に、局部的な低次の視点が最高の原理として掲げられたりするのです。

近代では、高次の普遍的目標(最高原理)がはっきりと現前しているがゆえに、理性による反省にもとづいて最高のものが決定され認識されるにしても、原理の序列がすでに確定していて、局部的な原理が最高原理にのし上がるようなことは容易に起こらないのですが。

  ヘーゲル哲学史講義」第二章 A.ソフィストの哲学(長谷川宏訳)

 独語、der Geistを精神と訳すか、霊と訳すかで、受け取る感じが全く変わってしまいます。唯物論文化が支配する現代日本では、独語辞書でも、当然、「精神」の訳語が一番先で、「霊」の訳語は、最後に回される(私の使っている、三修社:アクセス独和辞典)。翻訳で読む場合、この点を注意しないと、西欧人が読んでいるもの、原著者が意図したものと、われわれが読み取っているいるものの内容が、全く異なってしまうでしょう。注意すべきです。