アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

久しぶりに金縛られる

昨晩、と言っても既に今日であったが、「日本変態党」の告知を書いて、このブログに載せてから、布団に潜り込んだ。どういう眠りだったのか、思い出せないが、夢という意識が浮かぶ前に、数人に押さえ込まれ、身動きが取れなくなった。薄黄色い、薄茶色い明かりのような印象が残っている。身動きが取れず、声も出ない。はたから見れば、完全にうなされていただろう。うんうんうなっているうちに、拘束が無くなり、目が覚めて、夢だと気がついた。未だ、暗かった。

人智学に関して、何か行動を起こそうとすると、そのたびに、別の方向から意気阻喪させられるようなことが起こるという経験則が、成立しているように思える。傍から見れば大した決意でもないのだろうが、自分としては、それなりの決意を持って、一昨年の六月辺りから、人智学との関わりを、今までのようなおざなりのものではなく、真面目に深めなければならないと考え始めた。そして、その決意で何か行動を起こそうとすると、そのたびに、自分が限りなく惨めに感じられるような、自分などに人智学を云々する資格がないと思わせられるような何かが起きてきた。自分自身と言うよりも、身内や、猫からそれが間接的な形で私に降りかかってきたことが多かった。もらわれて行った子猫が、養子先で道路に出て車にぶつかって死んでしまったこともあったし、賢い老猫が、布団の真ん中に排泄してみせたこともあった。それまで、そんなことは全く無かった猫なのだが。昨晩のように私自身に何かが起こるようになってきたのは最近の傾向だ。こういう言い方をすると、真面目に人智学を学んでいる人には迷惑かも知れないが、私の場合、ある種の魔法の空間に入り込んでしまうような傾向があるのかも知れない。

シュタイナーは、晩年の諸講義によって、現代の文明悪の正体を詳らかにして見せた。しかし、それは、まだわれわれのなかで未消化である。それを自分の問題として、さらに同時代の人々と分かち合うべき問題として意識化し、公にすることは、ある種の結界を踏み外すことになるのかも知れない。そのことを無意識のうちに知っているので、多くの現代の日本人は、霊的な問題を茶化したり、まじめに考えないのかも知れない。しかし、その恐怖を乗り越えるには、問題の重心を自分自身の内部から、外側に移すことが大事なのだ。自分は自分だが、問題を自分の内部に抱え込んでいる限り、結局は自分自身さえ救われないという逆説。多くの人にとって、そんなことは、云うまでも無いことであろうが、私の場合、そう考えられるようになるまで、随分時間がかかってしまった。地震津波原発事故のトリニティーから得た得難いレッスンだった。