アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

黙示録をめぐる読書 その1:ドストエフスキー「悪霊」。 その2:ノーマン・コーン「千年王国の追求」。

昨日から早い夏休みを取る。今日はドストエフスキー「悪霊」米川正夫訳(岩波文庫)を読み終わる。ドストエフスキーは、高校生の頃、小沼文彦訳の全集が筑摩から出ていて、新刊が出るたびに買って読んでいたが、大学・社会人と進んでいる間に、その全集集めに挫折してしまった。小沼文彦の翻訳自体がずいぶん時間がかかっていたと思う。その頃、未だ、小沼訳では「悪霊」は出ていなかった。私は、小沼訳は好きだった。大部な小説が多いドストエフスキーだが、頁が進み、終わりが近づくにつれて、終わってしまうのが惜しい気持ちになったものだった。当時は完全に没入できたのだ。若くて感受性も良かったのだろうが、翻訳も優れていたのだと思う。実家に放置してあるが、今も無事だろうか。
最近、吉祥寺の古本屋「百年」で立ち読みした埴谷雄高選集では、大江健三郎埴谷雄高連合赤軍事件について対談していて、大江が「悪霊」から話を始めていたようだ。キリストの時代に跋扈した悪霊が、取り憑いた人間にどのような思想を吹き込んだものかは、当然、福音書には書いていない。私の記憶する悪霊に憑依された彼らの外貌と振る舞いは、どこか、ハリウッド映画に出てくるゾンビのようでもあった。一方、ドストエフスキーの筆力が描き出す、19世紀農奴解放時代のロシアの若者に憑依する悪霊は、もっともっと恐い。スタヴローギンがチーホン僧正に告白する悪霊体験は、私はオカルト小説として読んだ。
話は飛ぶが、この七月六日に阿佐ヶ谷ロフトで行われた鈴木邦男氏主催の連赤事件関係者トークショウでは、内ゲバで生き残った人たちの話が聞けた。私はネット中継で少しだけ視聴できた。冗談交じりで話が進むのだが、実は「悪霊」で描かれるような政治結社内ゲバ事件を避ける方法を公開で伝授していたのである。あくまでも軽いノリで話が進むので、下手をすると把握し損なう恐れがあるが、やはり、鈴木邦男はただ者ではない。

千年王国の追求」(ノーマン・コーン、江河徹訳、紀伊國屋書店)も少しずつ読み進む。これも厚い本だ。今日は、十字軍によるユダヤ人虐殺の話。この救いの無いわれらの時代こそが黙示録に記された終末であると言う認識が、ヨーロッパ中世、ライン川周辺の工業化・都市化の進展によって従来の血縁的共同体からあぶれ、困窮し切った農業・工業プロレタリアートの間に生まれる。その只中にメシアを名告る人物が現れては、黙示録的千年王国運動に結びついて、繰り返し繰り返し中世社会を動揺させた。武装して略奪した物資を貧民に配る教団が、当時は未だ豊かだったであろう中部ヨーロッパの森を根城に活躍した。ロビンフッドの原型か。メシアを僭称する指導者に従い、武装して当時の地方権力に武闘を仕掛ける集団もあり、「オーム真理教」も時空を超えて出現した時代錯誤的千年王国運動として見直すと、新発見があるかも知れないと思う。