アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

1968年まで戻ってやり直さなきゃいけないと思っているんです。

未だ梅雨の明けきらぬ午後、吉祥寺ルノアールで、アイスコーヒーを前に、高橋先生はおっしゃった。
「私は、最近、今の世界は、もう一度、1968年までもどってやり直すべきだと思っているんです」
「はあ」
私は常に飲み込みが遅い。殴られた翌日に腹が立ってくるタイプだ。
この高橋先生の言も、数週間後の今になって、段々効いてきた。
それは確かに、日本だけではなく、世界的な意味で、その通りなのだ。
原発事故をきっかけに完膚無きまでに露呈した日本のアカデミズムの堕落ぶりは、当時の大学解体を叫んだ学生たちが正しかったことを立証している。大学こそが、精神の砦として、経済・政治権力から独立すべきだったのだ。
1968年に何があったのか、その頃、私は未だ、赤ん坊に毛が生えた程度の存在だったので、直接の記憶は無い。
今、東京都写真美術館で「ジェゼフ・クーデルカ  プラハ1968 −この写真を一度として見ることのなかった両親に捧げる−」という写真展が開かれている。私はその一部を「芸術新潮七月号」で眺める。人びとが、世界の固い核心と命がけで対決していた時代だ。
鈴木さんも、最近出た太田龍「世界革命・革命児ゲバラ」の解説で「今こそ、太田龍に退却して太田龍から出発するのだ」と書いている。高橋先生と鈴木さんの時代認識は一致しているようだ。なんだか、歴史の鼓動、律動が感じられてきた。面白いことになってきた。