アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

大震災報道と実感・原発の破綻で文明の先端に立った日本人

仕事先のサーバーがダウンしているらしく、仕事関係のメールが使えない。東北大には知り合いが何人もいるので、どうしているか心配だが、まだ確認できない。テレビで見た津波から生き延びた被災者のインタビューの中に、「実感が沸かない」というものがあったが、私にもそう言う気持ちが強い。十年ほど前に、父親を亡くしたときも、その直後は平静だったのだが、何日かしてから友人に父の思い出を語っていて、突然嗚咽し始めたということがあった。気持ちが張り詰めていると、現実の出来事と自分の心の間に目に見えない壁を作って防御してしまうのかもしれない。それとは少し違うのだが、今回のカタストロフも、テレビで二日以上見続けているが、未だに実感がわかないというのが正直なところである。アナウンサーたちの職業的な語り口の報道を聞いている限り、何か外国の出来事のようでもある。しかし、被災者の直接のインタビューが出てくるようになって、普通の人が自分のことばで語り始めるのを聞くと、私の胸にもようやく迫ってくるものがある。赤ん坊の泣き声とか、本当の生活者とでも云うべき、日に焼けた田舎のおじさんが家族が見付からないと云って思わず泣き顔を見せてしまう場面などで、初めてどうしようもない現実が実感できたように思う。

原子炉の方も、今(夜11時44分)現在の保安院の説明では、三号炉の圧力の放出が出来て、海水注入が続行しているらしい。これでこれらの炉は廃棄処分になるのだろうが、原子炉の経済よりも安全を優先していることは、当然ではあるが、評価できる。今後この事故の教訓を活かして、日本のエネルギー政策は脱原子力に大きく舵取りせざるを得ないだろう。それに連動して、経済の在り方も、中国にGDPで抜かれたとか、アメリカの(インチキ)格付け機関の評価がどうしたとかいうような皮相なものではなく、もっと主体的な考え方に基づいたものとして生まれ変わらなければならないだろう。脱電気エネルギー生産、すなわち、太陽エネルギーが生産力の基本である農業・林業を回復させる機会がやってきた。そして今回の原発事故により、数字で評価できるものの限界を思い知らされたわれわれは、数字(たとえば内閣支持率などもそうだが)によって恣意的に操作される文明を脱却するチャンスをようやくつかんだ。19世紀以来の西洋的な機械文明の脆弱さ・崩落を日本人は世界に先んじて経験しているのだ。そのことが自覚できれば、逆説的ではあるが、明治以来の努力が今回の国難によって結実して、日本人は文明の先端に立つことになる。そして、その日本人のこれからの選択が、人類の手本になるように努力すべき時なのだと思う。