アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

龍樹の伝言

田舎に住んでいると、本屋が生活圏に無い。町中に住んでいる人には考えられないかも知れないが。”活字欲”に導かれるままに、通勤の行き帰りのコンビニで、しかたなく雑誌などを物色する。しかし、田舎のコンビニは雑誌なども限られており、何故か週刊朝日がない。売れないのか。
最近、大判の雑誌で、キリスト教や仏教関係の特集を組んでいることが多い。きっと売れるのだろう。私も買うくらいだから。「一個人」最新号が「仏陀の言葉」という特集で、勉強になった。ダライラマと、インドに帰化した佐々井秀嶺師のインタビューもあり、充実した素晴らしい内容である。ココスで夕飯を食べながら読む。
佐々井師のことは、初めて知った。インドのラージギルにあるという日本山妙法寺で、これといった修行の成果も得られず、翌朝は山を下りようと決意した午前二時、雨季だというのに空は晴れ渡り、月が煌々と冴え渡ったそうだ。そこで師は、ルージュの伝言(冗談を言っている場合ではない)ならぬ龍樹の直言を受ける。師は、目の前に現れた龍樹の言葉にしたがって、以後、仏教による不可蝕民の解放に立ち上がる。現代(の仏教界)にもこういうことが起こるのだと知る。
ちょうど、シュタイナーが現代(当時の)のキリスト教神学の人間主義(キリストを単にナザレの素朴な男と考える)を批判し、サウロの改心を単なる内的なビジョンだと解釈する態度が、「アーリマンの受肉」をむしろ準備するものであると批判するところを読んでいた。佐々井師の体験も、単なる心理的な現象だと解釈する人も多いだろうが、人智原理主義者の私は、文字通り、龍樹が師に直言したものだと思う。
ちなみに、日本のキリスト教文学もそう言う意味では、シュタイナーが批判した当時のキリスト教界の態度を踏襲するものではないか。私は、遠藤周作を少し読んだだけなので、何とも言えないが、あるとき新宿の街を歩いていて、初老の紳士に手渡された小冊子で三浦綾子の文章を読んだとき、シュタイナーが批判する「聖書主義」のキリスト教そのものだと思ったことがある。少なくとも、大川周明が批判した明治大正の日本のキリスト教のレヴェルを一歩も越えていないと思った。むしろ近代的な合理主義者こそを目覚めさせる威力をもつ神秘学を、シュタイナーはその生涯をかけて提示しようと努力した。
ここで蛇足であるがメモしておくと、龍樹ははっきりとした日本語で佐々井師に語りかけたそうだ。霊的な存在からのメッセージに関連して、ことばの問題で疑問がもちあがることはむしろ当然で、シュタイナーもその点に言及している。うろ覚えだが、その場合、霊的な存在からのメッセージを理解するのは、脳ではなく肝臓だという話だった。まったく常識を越えた話ではあるが、帰宅したら原典(英訳)でもう一度確認してみよう。