アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

大江健三郎vs鈴木邦男(幻の対戦)

十四日に横浜朝日カルチャーの高橋先生の講座に参加した。今回は、鈴木邦男氏が特別講師。鈴木さんともお話しできたが、どうも本人を前にすると、緊張してしまうらしく、頭がうまく働かず、もっと色々とお話しすべきことがあったなあと悔やまれる。
鈴木さんを他の右翼の活動家から一線を画すものがあるとすれば、それはまず第一に、言論の自由に対する感覚だと思う。それは、鈴木さんの敬愛する竹中労への共感にも現れている。鈴木さん自身は、「脱右翼宣言」をしたらしいが「夕刻のコペルニクス」をまだきちんと読んでいない私には要確認である。
現在の日本の奇妙に自粛的な言論状況を考える際に、かつて天皇を巡る表現に関わる右翼の過激な反応がもたらした影響はやはり無視できない。鈴木さん自身もひとりの当事者としてそのような状況への責任を感じている。それが、現在の鈴木さんの、立場の異なるもの同士の話し合いを求めて東奔西走する生き方を決定づけた。そして鈴木さんのそのような生き方の影響が少しずつ実を結んで、日本の言論の雰囲気は何となくより自由なやわらかい方向に変わって来つつある。と言うのが、私の理解である。
私が浪人生の頃、岩波の雑誌「世界」では、韓国・朴正煕政権の独裁とKCIA等による民主活動家の弾圧がもっとも熱い話題だった。韓国の政治犯の処刑に抗議する集会がお茶の水全電通会館で開かれたとき、「世界」で「状況へ」という政治エッセイを連載していた大江健三郎も講演者の一人として現れた。その際、大江の両脇を抱えるようにボディーガード二名が付き添っていたことが印象に残っている。ちなみに、同じく「世界」に「状況から」という大江と対になるエッセイを連載していた小田実も現れたはずだが、小田の印象は思い出せない。小田の発言は「小田ならこう言うだろう」というような予測がつくもので、意外性が無く、印象が薄かったような記憶がある。
大江の「セブンティーン・後編・政治少年死す』は、「右翼的価値観」に真っ向から挑戦するような内容で、現在も一般には流通していないし、ノーベル賞受賞時にも話題にならなかったようだ。タブーを通り越してまぼろしの作品になっているのだろうか。私は学生の頃、文学部の友人が前進社(だったっけ?)で買ってきたものを借りて読んだ。抗議集会の当時も、その余波がまだ冷めていなかったのだろう。最近の作品を読むと、現在の大江は、そのような警戒もなく、健康のための散歩を楽しんでいるようだ。かつての大江や、他の表現者にも見られる天皇をめぐる「神聖冒涜衝動」の発露とも受け取れる現象は、どのように理解すればよいのだろう。命がけの表現があり、命がけの反撃がある。それはそれでそれでよいのかも知れない。お互いに卑怯な真似はせず、正々堂々と闘えば、それでよいのかも知れない。その際、自由な言論と表現力を右翼も持てれば、テロは防げるだろう。鈴木さんなら、きっとそう言うに違いない。しかし、かつて「言葉の専門家」を自称していた大江と言論対戦するには相当の修練が必要とされることは云うまでも無い。