アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

ある死刑囚との対話

ずいぶん前に読んで、内容もすっかり忘れていたのだが、下の本がきっかけで、死刑廃止を考えるようになった。刑務所に入れられて初めて本を読む時間ができたような人もいる。刑務所に入れられて、初めて人間とは何かと考える余裕ができるような人もいる。死刑死刑とコマワリくんみたいに叫んでいるのは恥ずかしいことである。

犯罪者の出る原因の多くは、生活の困窮とそれが引き起こす結果の連鎖である。そんなことは百も承知の上で、犯罪の社会的な原因を放置したままで死刑死刑を連発することは、片手落ちである。強者(大会社、資本、アメリカ帝国、金融財閥、その他その他)に都合のよい社会構造を維持し、強化することを放置していることこそが問題なのだ。

奴隷の思考は捨てて、自分が社会の意志を代表してみたらどうだろう。社会に合わせるのではなく、自分の意志を社会に流し込むのだ。そうすれば、社会は変わるはずだ。そう考えるのが健全で当たり前なのだが、今の日本人は奴隷化教育を徹底的に仕込まれているので、そう考えない。マスコミも、日本人が奴隷の思考に陥るように、毎日毎晩電波を発信している。そういうメッセージは、もちろん、あからさまでは無く、暗黙の了解事項として絶えず発せられていることに注意すべきだ。

シュタイナーの社会有機体という考え方は、私にはまだわかっているわけでないが、自分の属する社会を、機械的なシステムではなく、一種の生き物だと考えるだけで、いろいろなことがずいぶん変わるだろう。
個人を社会という大きな機械の部品だと見なすのが、今の日本社会だ。
だから、犯罪者という不良部品は廃棄処分すればよいと考え、実行する。
しかし、社会が一種の生き物であるとすれば、部品の交換ではなく、治癒こそが必要であるという考え方になるだろう。社会の治療だ。

ある死刑囚との対話 (叢書死の文化)

ある死刑囚との対話 (叢書死の文化)