やがて風の音は微かな音楽に変わる。
雄大なるクレッシェンド。
荘重なパイプオルガンの響き。
顔を上げ耳を傾ける山本太郎。
山本「バッハ?」
しかしそれも突然の破壊的な音波の波束に取って代わり終わる。
奏者が鍵盤上に突っ伏したらしい。
声 ”So sprach er – und kehrte mit Wut zur Hölle zurück.”
山本「彼はかく語り − 怒りに燃えつつ地獄へと帰っていった。。。」
山本
「Du Jehova sollst bald in deinem richtenden Grimme –
Dieses dein Israël soll dein Rachedonner zerschmettern,
Oder Mein Geist ist hin – verloren des mächtigsten Kräfte.
おんみイェホヴァよ、おんみもやがて審判の怒りのうちにー
おんみの復讐のいかづちは、このおんみのイスラエルをくだくであろう。
さもなくば、わが精神が、その至上の力をうしなってほろぶだろう。 」
山本「ヘルダーリン」
闇の中に光が現れる。一人の人物が立っている。
男「私は目覚めたのか? 鍵盤の上で死んだはずだったが。」
男「私は詩人になりたかった。科学はもうコリゴリだ。」
男「ベルリンまで通う列車の中で、毎日のようにわがドイツの詩を暗唱したものだった。」
男「そう言えば私の大事な自転車はどこだ? 空襲の中も生き延びた私の大事な自転車。」
山本「ドイツ人か。。。悪魔じゃなさそうだ。ともかく人間に出会えた。この真っ暗闇の中で。怒りに包まれた人間だ。いや、光に包まれた人間か? おれは独逸語ならわかる(教授だからな)。」
山本、恐る恐る男に声をかける。
「あなたも詩人になりたかったのですか?」
男「そのとおりです。私が詩人であったなら、あのように多くの友情を失うこともなかった。」
山本、独白めいて、
「詩人なら友情を失うこともなかった。。。それは必ずしも正しくはない。」
山本「なぜなら私は詩人で、多くの友情を失った男だからです。」
男「おお、いきなりの反例か! あなたは日本人のようだが。」
男「そしてこういう言い方は失礼かもしれませんが、教養のある方らしい。」
山本「いかにも。。。私は日本の詩人でした。おそらく詩を志す者で私を知らない人間はいなかった。」
山本「しかし心許ない気がする。。。今となっては誰がオレのことを覚えているんだろう?」
山本「私は詩人になる前に既に死すべき運命にあったのです。しかし、死なずに済んだ。それも”ピカドン”のおかげだと思っている。」
男、狼狽する。
男「わたしたちの”アドラメレヒ”がこの男を詩人にしたというのか。。。」
山本「わたしたちのアドラメレヒ?」
山本「あなたは科学者で、原爆の開発に関わった人間の一人だった?」
男「おお、あなたはなんと直観の優れた人間であることか! 詩人とはそのようなものなのだろうか。」
山本「私は死刑を宣告された人間だった。原爆が”落ちた”ことで大日本帝国は全面降伏した。そして私は靖国神社の英霊になる運命を脱したのです。」
山本「あなたは”アドラメレヒ”が私を詩人にしたという。。。全くそのとおりだ!」
山本「しかしここは地獄ではないらしい。」