アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

私の天使に(第二稿)

私は詩論を読む。戦後詩人たちの輝かしい言葉(多くは飯塚書店の絶版・古書)。しかし私自身には詩論・詩学を信じる気持ちは毛頭無く、ほんとうはそこにある言葉にしてはいけないものの存在が詩を支えているのだと知っている。たとえば今日のように冷たい曇天の窓から射す薄日が床に落とす屑籠の影。その美しさ。

われわれは表現することで表現されていないことを表現する・指さす(ウィトゲンシュタインのように、あるいは幼児のように)。

感情の共有、それが現在のものか、過去のものか、あるいは未来のものであるのかを問わず。それに失敗したとしても嘆くことは無い。いずれにせよ、詩は自由であることによってすべてを担保してくれる。それが二十一世紀のムーサ、うるさすぎる天使たちの性格なのだから。

あまりにもどうしようもない、ひどい経験が言葉になるまでに百年経ってしまったとしても、今の私には充分納得できる。福音書の成立。その遅れを根拠のひとつとして基督実在を否定した幸徳秋水は、實は悲しみを知らずに生を全うした幸福な人物だったにちがいない。死ぬまで失語症でいたとしてもおかしくはない経験があり、そのとき、たとえ言葉が発せられたとしても、それは言葉になるべきではない何かがかりそめの姿を示したにすぎないだろう。

「死ぬのは困難なことだが、生きるのはもっとたいへんなことである」ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ

だから、そこで、裡にひそむ奔馬の轡(くつわ)を取り、なだめてくれる存在が現れる。現れなければならない。