アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

フィヒテ「人間の使命」ーフィヒテの神智学

フィヒテ「人間の使命」も終わりに近づいた。信仰とは?

「しかし私は、自分が最高の知慧と善意の世界のうちにいることを知っている。最高の知慧と善意とはその計画を完全に見通し、それを誤りなく遂行する。だから私はこの確信のうちに安らぎ、幸いである。」←”しかし”が大事。。。”しかし”がすべてであるとさえ言える。。。

この”しかし”こそが信仰の本質のように思える。。。

そして、この”しかし”の力を言語分析しないこと、ハートで感じることが信仰の本質であるように思える。その”力”がどこからやってくるのか? この”しかし”に込められた力はいったい何なのか?

「理性と道徳性へと定められている自由なる存在者たちでありながら、理性に逆らい、彼らの諸力を揮って不条理と邪悪を促進していることも、同様に私を動揺させ、激しい不満と憤激の生贄にすることはできない。彼らが善を、それが善であるがゆえに憎み、惡を、惡そのものへの純粋な愛から促進するという倒錯、この倒錯のみが私の当然の怒りをそそりうるのであるが、ーこの倒錯を私は人間の顔をしているものに帰することはできない。」
 フィヒテ『人間の使命』ー第三巻「信仰」ー第四章「宗教的世界觀」

「なんとなればこのような倒錯は人間の本性のうちには存しないことを私は知っているからである。」(同)

「だが自然的人間が災厄とみなしているすべての事柄のなかでも、死こそは私にとっては最も軽きものである。私は決して私に對しては死なないであろう。ただ他の人たちに對して、ー私がその人たちとの絆を引き裂かれるところの後に遺る者たちに對して、死ぬであろう。私自身にとっては死の時は新しき栄光の生への誕生の時である。」(同)

『私は決して私に對しては死なないであろう。・・・私自身にとっては死の時は新しき栄光の生への誕生の時である。』 フィヒテ

この先の記述は完全に神智学ですね。読むのがもったいなくなってきた。シュタイナーだかフィヒテだか區別がつかない。。。

フィヒテっていったい誰なんだ?!

と思った處で、不用意に持ち上げたこの本(中公バックス世界の名著43「フィヒテシェリング」)が二つに裂けました(製本がわるい)。何の予兆? 何の啓示? 實は、もう一冊、もっと古いバージョンで持ってる(中身は同じはず)から、それほど動じない。。。

フィヒテの「神智学」。