アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

シュタイナー批判と反批判

シュタイナーを批判できるためには、シュタイナーを理解しなければなりませんが、ぼくなどは、その前提の段階で数十年だよ(笑)。なんでも図式的に上っ面で「了解」できる人はある意味でうらやましいよな。シュタイナーとパラケルススを同列に扱ってもなあ(笑)。時代的使命・言語の違いがある。

しかし、シュタイナー批判が問題にされるほど、この日本(のアカデミズム?)でシュタイナーが際立っているのだとしたら、それはそれでうれしいかも。世間の動向に暗いので、なにがどうなってるのか。。。

シュタイナーの(思想的)業績はまだまだほんの一部しか理解されていないように思えます。そういうことで、独逸語の勉強からやってる(笑)。

例えば、歷史的キリスト教批判において、キリスト(あるいは原始基督教)にでは無く、教会に「咎」が帰せられるべき場合が多いと思います。それと似たようなことは、人智学關係の諸々の運動と、シュタイナー(原始人智学)の關係にも言えるのだと思う。後世の運動で誤りがある可能性はいくらでもある。

少なくとも、その辺は、ごっちゃにしないでほしい。。。そう思いますね。

シュタイナーは、ぼくらにとっては、完全に!同時代人なんですよね。 第一次世界大戦も、ナチズムも、ロシア革命も、帝国主義も、すべて同時代的に経験し、人類(そして西欧文明)の危機の時代に生きた人だ。現在は完全に彼の生きた時代から導かれる射程範囲にある。その基盤は何も変わってはいない!

どうやら何もわかってない人らしい。さっきの分離の話も通じないだろう。おそらく文系の研究者で、失礼だけど科学のこと(歷史的にも)が分かっていない人だろう。そして現在の文明への危機感の無い人(アカデミズムに多いですね!)。學門が結局は知的遊戯で、自分の実存的な問題では無い人だと思う。

無駄口たたいてしまいました。。。

逆に言うと、なぜ、シュタイナー批判をわざわざしてくれるのかが、興味があるな。社会現象的な部分で、「カルト批判」的に、人智学的「文化」を批判することで、論文でも書きたいということかな。もし「人智学運動の被害者」っていう人もいる場合なら、きちんと書けばそれはそれで有意義だと思います。

オカルトだからダメ! っていうことで、停止しているとしたら、そこで、話は終わってもしかたが無い。

ぼくにとっては、宗教と科学と藝術を統合する要(かなめ)にシュタイナーがいる。ぼくにとっては尽きない靈感の源泉でもある。このような人物が実在したこと! 世界はまったく当たり前じゃない! なんておもしろいんだろう!

めんどくさがられてる(笑)。「科学から相手にされない」っていう含意は、科学の優越性を支持するっていうことですね。これでは、「科学が大洋のなかのいかに小さい島であるか」を示したウィトゲンシュタインの水準には達していない。問題のありかがわかってない。

「社会的に無駄な偏見振りまいてるんだよ」っていう言明も、もっと具体的で無ければ応えようがない。オカルト主義者ではないかもしれないけど、曖昧主義者ではあるらしい(笑)。

無意味だったかな。。。独逸語の勉強少しでもやる。。。アカデミズムの人(?)にありがちな権威主義(事大主義!)=哲學性(自分の言葉で語ること=考えること)の欠如。それは311以降、身にしみてあきらかになりました。

ただひとつだけ言えることは、人智学をいわゆるスピ系の文脈に解消してその一つとしてみているとしたら、それは大いに間違いであるということでしょう。(商業的)スピリチュアル批判の矢面としてシュタイナーをとりあげるとしたら、それは勘違いもはなはだしいと思います。

前世紀でしたか、宮沢賢治の「有毒文学」を表層的な毒にも薬にもならない流行として消費した一時期があった。同じように、人智学も、本来、人間の生き方を変えてしまう厳しいものだと思う。宮沢賢治を読み込んだらそうなるように。スピ系の居心地の良さ、自己肯定、現実逃避の世界とは完全に異質です。

しかしサウロの回心という話もあることだ(笑)。。。