アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

時間・自由・意思 ー フォイエルバッハ「唯心論と唯物論」より

カントは、
時間はそれ自体では何物でもなく、
唯、
人間の表象にすぎない、
物自体にではなくしてその現象に関するのみ、
といふ純粋理性批判の中で吐露した彼の秘蔵の思想を、
実践理性批判においても主張している。

否、
意思の自由の存在をただ、
理性と意思とにとって時間の無効力たることのみに基くとなしてゐる、
何故なら如何なる状態も時間内に於いては先行せる状態の必然的結果であり、
従って時間のうちにある活動能力はその現在の活動を、
「最早やその力の及ばない」過去によって規定されてをり、
それ故に時間内に於いては、
以前によつて制約されることなく自から一の状態を生ぜしめるが如き能力 
 ー ところがかゝる能力が意思の自由といふのだ ー
が可能であるからだといふ。

 フォイエルバッハ「唯心論と唯物論 2時間内における意思」
  (関根悦郎・國互一訳、共生閣、昭和六年十一月発行)

ニュートン力学的機械論的世界像(時系列的、因果律的)を逸脱・超越するものが人間の意思、自由であると、カントは述べたのか。フォイエルバッハに教えられました。少しずつ続きを読みます。(翻訳が一部間違っているのではないかという気もしますが、大意は取れる。別の翻訳も見た方がよいか。)

 ー 付(エンゲルスによる”唯物論”のひとつの定義) ー
吾々自身が属している所の、
実在的な、
感官によって知覚することの出来る世界が唯一の実在であって、
吾々の意識と思惟とは如何に超感覚的に見えやう共、
一の実在的、
肉體的器官たる頭脳の所産に過ぎぬ。
物質が精神の所産ではなく、
精神その物が物質の最高産物に外ならぬ。
こういふ思想は言ふまでもなく純然たる唯物論である。云々
エンゲルスフォイエルバッハとドイツ古典哲学の終焉」1886年