我々は、
中世期の社会的諸構成物が、
そして後には絶対的王権が、
その盛時を過ぎて、
ブルジョア階級の革命的突進に対し守勢をとるに至るや否や、
教会の利害とその利害を等しくするに至ったのは如何にしてであるかを、
此処に詳細に説くことは出来ない。
兎に角、
基督教の神的起源を信じることは封建主義及び絶対主義の一支柱となったのだ。
従ってこの信仰を否定することは、
革命的ブルジョアジーの課題の一つであった。
かくて基督教の成立に関する問題は一の政党問題となった。
即ち、
政治的及び社会的利害がその中での中心であって、
客観的な学問的討究はそれに次いで漸く力を持つといふ底(ママ)の問題となった。
故に現代の所謂『教養ある』町人は、
前世紀の所謂『浅薄な偽文明』を軽蔑をもって見下し得ると信じている。
とまれ、
十八世紀の啓蒙主義の闘争は一の歷史的必然であった。
そしてそれは一種の鋭さと機知と激情とを以て輝かしくも遂行されたので、
その当の敵は、
支配的組織の凶暴な強力が彼らの側に与してゐるにも拘わらず、
徒らなる憤激に痛ましくも身を悶え憐れにも滅亡していった。
今日科學が公平に客観的に基督教の起源の問題に近づくを得るとすれば
ーと言って常に科學がさうしてゐると言ふのではないー
それは神学に対する啓蒙主義の勝利に負うてゐるのである。
カウツキー「基督教の成立」喜多野清一訳
(岩波文庫576「エンゲルス”原始基督教の起源” カウツキー”基督教の成立”」 昭和四年十二月発行)
_____以下はツイートのコピーアンドペーストです____
→ 身も蓋もない言い草ですが(笑)正確な分析でしょう。しかし現代の革新政党の人の宗繁に対する姿勢は当時(出版は明治18年/1885年)より更に降下し、もはやこのような”思想的闘争”は既に克服されたものでしかないようです。ことさらに”分断”を強調するつもりは無いが。偏見ですか? →
→ 飛躍しますが、日本で革新政党が支持を伸ばせず、自民・小梅(公明か)などのネトウヨレヴェルの保守と互角に戦えないのは、その土着化に成功していないせいだと思う。民族・伝統・宗繁の問題を無視し、避けて通る限り(普通の)日本人の国民性を無視する事になり、独りよがりの正義に終始する。→
→ 一握りのインテリの支持も大事ではありますが、一般庶民のもつ”言語化されないが大事にしているもの”を尊重する姿勢を見せない限り、都市部はいざ知らず、特に地方の(普通の)人たちの票を得ることは、難しい。→
→ いくら”正しく”ても、単に”愛国心”を否定するだけだとしたら、安倍的ファシズムには勝てないでしょう。共産党を見ていると(ネット上と抗議の現場だけですけど)、変にはしゃいでいるような気がしてならない。→
→ ネット弁慶だったかな。しかし、”精神”の問題を抜きに政治が語れると思っている事が、現在の日本人の最大の病理だと思うので、書いてみました。ドイツでは、原発問題を政治ではなく、倫理の問題として取り上げていた。まだ、基督教の精神が生きているからでしょう。戦後日本の敗北が際立つ。
↓(・д・)一般庶民に”精神”なんか無いと思っているのなら話は別だけどな。