アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

彼等の希望は人をして人を支配せしむるに非ず、 人をして物を支配せしめんと欲すれば也

如此にして社會主義は、
深く現時の國家の中央集権の害毒に懲りて、
地方分權を主張するに至るは自然也、
彼等は人民の事業をして人民に行はしめ、
若くは人民に依って行わしめ、
若くは人民に近しめんが爲に多くの公務を中央政府の手より奪ふて地方の自治團躰に恢復するの必要を感ず、
彼等は可及的中央政府職掌と權力とを削減して、
國家を以て地方市府町村の自治的集合團躰の聯合とし中央政府は唯此團躰聯合を統一し、
彼等が共通の利益を公平に按排せしむるの具となさんと欲す、

彼等は如何なる政治にもあれ如何なる組織にもあれ、
富財の社會共同的生産と其公平の分配を保証することを必する者也、

萬人をして總て其堵に安んじめ、
萬人をして總て十分に其知能を發揮せしむるの地位と機會を保障することを必する者也、
是れ彼等が經濟及繁育の事業を以て一に公共の手(國家と云はず)に委せんとする所以にして、
而して經濟繁育の二事を除くの外は、
決して政治的干渉を喜ぶ者に非ざる也、
否な極めて自由放任を主張する事猶ほ今の個人主義者の如き也、
例せば國繁の如きは社會主義とは全然相容れられざるものにして、
獨逸民主黨が其綱領に於て明かに宗繁を個人の私事なることを宣言せるが如き是也。

彼等の希望は人をして人を支配せしむるに非ず、
人をして物を支配せしめんと欲すれば也

幸徳秋水「社會主義神髄」ー附錄「社會主義と國家」

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日本国憲法の精神として現れる近代的人権思想は、当然ですが、明治時代、既に日本人の自家薬籠中のものだった。もっと云ってしまえば、ぼくはヘーゲルの云う世界精神=シュタイナーの云う時代霊の働きを感じるので、日本国憲法の世界史における出現をその意味で重要視しています。決して、単に押しつけ憲法とかいう、一面的な見方に収まる文書ではありません。BC級戦犯の手記を読んでいて、あらためてそう感じました。