「ああ、ハリー、あたしたちは沢山の汚いものやばかげた事をかき分けて手探りで行かなくちゃ、家へはかえれないのよ! そして、あたしたちは誰も案内人がないわ。あたしたちのたった一人の案内人は郷愁だわ」
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今はじめてぼくはゲーテの笑い、不滅な者の笑いがわかった。それは対象がなかった。この笑いは光、明るさにすぎなかった。本当の人間が人間の苦しみ、悪徳、迷い、情熱、誤解を通りぬけ、永遠へ、宇宙の中へとつきぬけるとき、残るものである。
そして、「永遠」は時間からの解脱にほかならず、いわば時間が清浄へ帰ること、変身して空間に変わることだった。
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ぼくは何もわからなかった。考えることができなかった。死相のこくなっていく顔から、ルージュをぬった口がだんだん赤く輝いていった。ぼくの一生は、ぼくのわずかの幸福と愛は、このこわばった口のようだった。死に顔につけられたわずかの紅のようだった。
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いつも悲壮ですね。ハリー、どうしてもユーモアを学ばなくちゃいけないね。ユーモアはいつだって引かれ者の小唄だ。万一の場合は絞首台でユーモアを学ぶんだね。
臆病者のあなたは、死にたいと思っても、生きようとは思わない。ちくしょう、あなたはほんとに生きるべきなんだ! どんなに重い刑を宣告されたって、あたりまえだろ?
「荒野の狼」ヘルマン・ヘッセ(永野藤夫訳・講談社・世界文学全集・1975年発行)
永遠=時間が空間に変身したものこそが、シュタイナーの言うアカシャだろうか。