アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

「平時」に返る。我に返る。

統一戦線義勇軍の針谷さんの影響で、「平時」などという物々しい言葉を覚えてしまった。異常時のなかで、平時を過ごすこと。

ブログにデモの写真を載せたのは、良かった。とても気に入っている。迷惑を考え、判断に迷って載せなかった人の写真もあった。

平時は、なかなか人の顔をまじまじと眺めたりすることが無いので、写真に撮って、あらためて、人間とはこんな姿形で、こんな風に歩いて、こんな顔つきを見せるものだということに心を動かされている。皆さんの表情が、本当に人間らしくて、見飽きない。懐かしくさえ思える。又会えるかどうか、分からない。ひょっとすると、もう一生会えないかも知れない。人間の出会いとは、そのくらい、微妙なものだし、今の状況もある。

デモに参加する人の考えは、もちろん様々だ。私のような、肉体的な損傷や、手術や、血を見ることを極端に忌避する人間には、口にするのもおそろしい暗い展望を語る人もいる。それらを具体的に語ることができる人は、医療の専門家のような、客観的な冷静さを保ちながら、はかない人間の肉体の帰趨を見つめ、対処できる人たちかも知れない。大人達が、そういう医者のような眼でしか対処する他にない現実が出現することを怖れる。

しかし、今回の銀座デモにおける不当逮捕(どうやら、見せしめのため、意図的に主催者ではなく、一般人から逮捕者を選んだらしい)で明らかになったように、そのような暗い未来よりも、もっと他の事態を怖れている人たちもいる。今回の警察の不穏当な動きに責任があると考えられる石原都知事に典型的に現れているタイプだ。彼らには、子供の肉体に危惧される暗い将来の出来事よりも、自分の権力の基盤が脅かされることの方が、怖ろしいのである。これは、時の権力による人民からの収奪が固定化・制度化されて以来、至る所で繰り返されてきた歴史の一コマに過ぎないと云えば、確かにその通りではある。しかし、彼らのこの理解しがたい愚かさの起源が何処にあるのか。首をかしげざるを得ない人も多いに違いない。私も繰り返し、繰り返し、その問題に立ち返らざるを得ない。
ひとつの結論は、極端に人生への・世界への恐れが強い人たちなのではないかと、私は自分の狭い経験から推測している。石原氏の相貌は、明らかに弱虫の顔である。男としては、情けない、見たくもない顔だ。やはり、人間も歳を取ると、その人の生き方が顔に出ると云うが、まさしくその通りだ。デモに参加された方々の風貌にほれぼれするのとは、対照的である。