アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

 核抑止力・対米自立・原発廃止の三竦みを自覚した吉野の夜

佐藤優・吉野勉強会、初日(20日・金)の夜は、大宴会場で飲み会の後、二次会は出ないで十時に寝た。翌朝は、五時間睡眠の習慣がついてしまったのか、三時に目が覚めたので、未だ半分も読んでいなかった講義テキスト「日本国家の神髄」の予習をする。同室の若い二人はまだ熟睡中だったのでロビーに行くと、照明が落とされていて暗い。仕方がないので自動販売機の明かりの下で読む。夜が明けて、六時半から蔵王堂の朝の勤行に参加する。

初日の夕方、午後の講義の後に最初の勤行があった。見上げるばかりの巨大自然木六十数本の柱に支えられた壮大な伽藍の下で執り行われる勤行は密教儀式的に進行し、全く予想もしていなかったせいもあって、驚かされた。法螺貝の二重奏、大太鼓連打、鉦、数珠の音、僧侶たちの読経(合唱)とお香に包まれて、巨大秘仏(御簾の向こうで見えない)の鎮座する法壇を前に瞑目して座す。きわめて音楽的な体験。仏式オーケストラの奏でる力強いシンフォニーのようでもある。三日間の、まことにありがたい経験だった。

二日目(21日・土)の夜の宴会では、佐藤さんのスピーチがあり、「本当は皆さんとご一緒に行動したいのですが原稿を抱えていてそれも出来ず、申し訳ありません、仕事が遅くて」とのことだった。後醍醐天皇に呼ばれる政治家が(次の)政権で活躍するという意味の、酒の席らしい(?)話題だったが、佐藤さんは本気だったと思う。この日は二次会に出る。月刊日本の編集の人や、その関係者、ホテルの同室になった若いJさん、Iさん、新教出版の編集者、週刊金曜日の編集者などと痛飲する。右翼、左翼、クリスチャンが入り乱れ、珍しい人智学徒まで加わっていたのだから、楽しくないわけがない。

ここで話を戻そう。講義の中で「核抑止力」の考え方が外交上は当然のものとされているという一節があった。一方で、原発を廃止させるには、経済原則で攻めて、原発がペイしないことを(電力会社、政府等に)思い知らせることであるとも語っていた。そこで、この二者の背反する問題に気づかされたが、話はその方向には展開しなかった。しかし、後で知ったのだが、この日に以下のようなシンクロニシティー(意味のある偶然の一致)が起きていた。

      _______以下引用開始_____

原発の地下建設推進、議連発足へ 与野党党首ら超党派
2011年5月21日0時59分 asahi.com
 4人の首相経験者や与野党党首が顧問に名を連ねる「地下式原子力発電所政策推進議員連盟」が31日に発足する。表向きは勉強会だが、名前を連ねるベテランの顔ぶれから、大連立や政界再編に向けた布石との臆測も呼びそうだ。
 議連の顧問には民主党鳩山由紀夫氏、羽田孜氏、自民党森喜朗氏、安倍晋三氏の首相経験者のほか、谷垣禎一総裁、国民新党亀井静香代表らが名を連ねた。たちあがれ日本平沼赳夫代表が会長に就いた。
 地下式原発は地下に建設される原発。事故の際に容易に地下に封じ込められる利点があるという。三木内閣当時に検討が始まり、1991年に自民党内に勉強会が発足していた。
     
      ______以上引用終わり_____

この政治的実力者たちの意図するところは、必ずしも一枚岩では無いかも知れないが、基本的に、日本の対米自立と核保有をセットで考えている政治家たちと理解して良いのではないか。原発をエネルギー問題ではなく、防衛問題として考えているのだ原発を維持することで、日本が核保有する能力を確保しておくことが目的だろう。この政治家たちは、佐藤氏が言及した「核抑止力・核兵器を所有することが核戦争を抑止する」の考え方を信じていることになる。

話を二次会に戻そう。私は佐藤氏の言及した核抑止力の考え方が気になったので、その点を話題にしてみた。そこで、月刊日本の編集の人と激しく意見が対立することになった。彼は、核保有論者だった。彼は被曝二世で、父上が広島で被曝したそうだ。もともとは日経の記者だったが、企業の提灯持ち記事を書くのがばかばかしくなり、けんかして辞めたそうである。読売新聞も受かったそうで、早大出のエリートだ。娘さんがいて、子供には二度とこのような目に遭わせたくないからこそ、日本は核武装すべきなのだと言った。私は、持論の、狭い日本は核戦争になったら全滅するほかにないが、一方の中国は何とか生き残るし、核武装すれば、相手国に日本を核攻撃する口実を与えてしまうだけだという意見を述べた。酔っ払ってはいたが。皆白けてひとり二人と座を辞し、いつの間にか、私たち二人だけになってしまい、どこからか帰ってきた部屋の主の神学生たちに追い出されて、論争はもの別れに終わった。

ここでシュタイナーを持ち出すのは少し気が引けるが、人智学徒なので仕方がない。「党派的な論争において論理的に白黒をつけようとすることは、同じくらいの妥当性を持つ正当化・論理立てが常に双方に対して可能なので、意味が無い」と言う含意のことを、シュタイナーはアーリマン衝動との関連で述べていた。私は、この、原発廃止、対米自立、核抑止力信仰(核保有)の三すくみ状態を脱することが、合理的判断の範囲でも十分可能だと信ずるものであるが、今ここで、その論理を組み立てようとは思わない。むしろ、少しばかり視座を後退させて、民族の生き残りの問題を、人類の生き残りの問題にまで拡大して考えるほかに無いと思っている。今ほど日本人にとって終末論を真剣に検討するにふさわしい時代、そうせざるを得ない時代はない。ベルジャーエフも、大東亜戦争第二次世界大戦)を前にして、終末論の問題に没頭していたらしい。(もう眠いので)結論を急ぐ。その観点から言えば、民族の生き残りの問題は、もはや霊的な美意識による意志的な判断の問題でしかあり得ないのではないだろうか。民族の死を賭してでも、高邁な理想を人類に範として示すことがわれわれ日本人に出来るかどうか、と言う問題である。しかし、私の本心としては、そのような道徳的な問題以前に、純粋に戦略的に考えても、核武装以外のもっと賢い生き残りの可能性・策はいくらでもあるはずだと思っている。ここでも、(外交の)専門家の常識というものが意味を失いつつある時代という認識が、自分の中に強く芽生えてくる。