アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

くまざわ書店に行く

昨日、久しぶりに本屋に行く。
本格的な大型書店。哲学、思想、宗教の棚も著作家別に分類されていて、図書館のようでもある。しかし、わたしは、場違いなパーティーに紛れ込んだようで、落ち着かない。偉い先生がいっぱいだが、本当は私は彼らを尊敬することが出来ないのだ。それが悟られないように、注意しながら、立派な威張り腐った本たちの群れの中を行く。学会のパーティーと同じことである。
車谷長吉の全集が出ている。それがとても武張った頑丈な箱入りの本で、行き着くところはそれか、と思う。そういう私の根性の方が腐っているのだ。
欲しかったのは、「山と渓谷」で、アームチェア・クライマーとしての私の愛する雑誌である。最新号は、山道具特集。大いに結構。福島の山に、ガイガー・カウンター片手に分け入る自分を想像しながら、必要なアイテムを買いそろえる計画(を夢想する)。本屋は私には鬼門で、当然、目的のヤマケイだけで済む話ではなく、大いに散財してしまう。
季刊「真夜中 No.12 特集・冬空の科学」(1200円)も衝動買い。似非昭和な気分に溢れた本作りで、こんな雑誌が出ていたことは知らなかった。文章は読まないかも知れない。贅沢をしてしまった。
唯物論と現代 44 ダーウィンと進化論 2010.6」(1400円)。劈頭を飾る論文「宗教と進化−ダーウィン的な理解 入江重吉」を立ち読みして、買うことにする。これは、端的に役に立ちそうである。自分で唯物論者だと思っている人物が、実際に唯物論者であるとは限らない。シュタイナーによれば、むしろ、キリスト者を自認している人物の中に、キリストに敵する者がいることが現代の悲劇なのである。もちろん当人にはその自覚はない。
「襲いかかる聖書 小川国夫」(岩波書店 2010年9月発行 2300円)。これも本の作り、佇まい、そしてタイトルで、私の小鳥のような心は鷲掴みにされてしまった。しかし、キリスト理解、聖書理解に関しては、私はひどく傲慢な気分で小川国夫に対することになるかも知れない。自分でつかみ取ったとはとうてい言い難い付け焼き刃の自分のキリスト理解が、生涯をかけた格闘の結果である小川の聖書理解を批判するという傲慢は恥ずべきだ。まだ読み始めたばかりだが、小川のキリスト像が、一種の超人としてのキリスト、宗教革命家としてのキリスト、つまり、人間主義的なキリストでないことを望む。
「シュタイナー・コレクション5 イエスを語る 高橋巖訳」(筑摩書房 2600円)。ここのところ、アーリマン・ルシファー関連ばかり読んでいる。神秘学概論は、高橋訳を最近読み終えた。シュタイナーは英訳本もそろいつつある。近年出たシュタイナー全集からの項目別索引(全二冊だったと思う)も入手したが、これはドイツ語なので、ゆくゆくはドイツ語を勉強し直して、読めるようにするつもりでいる。気持ちの上では十分野心的なので、あとは地道に努力するだけなのだが。