安心と不安を体現したような二人の男がローマ時代の扮装で現れる。
一人は必要以上に肉付きが良く、もう一人は必要以上に痩せている。
ダンテの言う煉獄である。
二人は「桂冠詩人殺人事件」という三文芝居のプロットを完成させるという罰を受けているのだ。
終幕で二人は世間にありふれた文学部只の教授として再登場するであろう。
二人はお互いを「山本」、「生野さん」と呼び合う。
当然仮面劇である。
コロス風の一団は彼らのゼミ生であることはやはり終幕で明らかにされるであろう(仮面・扮装を脱ぐことで)。
その他煉獄につきもののおどろおどろしい怪物たちの意匠は演出家に任せる。
洋の東西を問わず荘厳なあるいは滑稽な詩を書いた詩人たち(煉獄在住)の登場も大いに期待できる。
「宮沢賢治が何処にいるのか」が問題であるが、それはもちろん(観客・読者のお楽しみとして)最後まで伏せておかなければならない。
女性は一切登場しない可能性がある。
と言うのも、登場人物たちは詩の戦争の犠牲者として詩の靖国神社に祀られているからなのだ。
劇の主題は当然詩の聖性をめぐる闘争であったが、その舞台が日本であったことがかれらの悲劇の発端だった。
かれらの闘いは黙殺されてしまったのである。
しかし、なぜか、死後(いや生前既に)かれらは詩の靖国神社の神々なのであった。
詩の靖国神社がダンテの煉獄に通じているというきわめてエソテリックな靈的秘密がこの劇を通じて明らかにされるであろう。
注:しかし演劇の現代性を確保する意味でも、賢治の中性的・天使的な魅力を醸し出す意味でも、賢治役はぜひ女優にお願いしたいと考える(戯作者)。
「本物の靖国神社」に祀られるはずであった山本が偽物の靖国神社である(靖国はどこにでもある!)詩の靖国神社の神になってしまった遠因としては、アメリカによる広島・長崎の原爆投下があった。
だとすればカルマ的關聯を探求することによって、ハイゼンベルグとボーアが登場してくる可能性もあるが、そうなるとわけがわからない(しかしそこを上手く料理する力量がこの世界の創造者である存在に対して問われているとも考えられる)。
注:生野も山本も東大独文科出身の独文科教授なので、その展開における(独語)会話には不自由が無いはずであろう。
やたらとヘルダーリンの詩句を口ずさむ正体不明のドイツ人としてハイゼンベルグが出てくるのも好い(できれば生野幸吉訳で)。
ハイゼンベルグには「自転車でやってくる天使」という一人二役。粒子性と波動性の二重性を体現してもらうことになる。
*
『前口上』
正体不明のドイツ人−ハイゼンベルグ−自転車でやってくる天使
「成功した大日本帝国としての戦後アメリカ帝国主義。
なんたる逆説であろうか!
アメリカは太平洋戦争を通して、否、契機として、日本の帝国主義を研究することで”悪いこと”を覚えたのだ。
トンデモ説だ(笑)。
しかしそれが大戦後アメリカにとっては、
隠然たる世界支配の手法にもなったのだ。
そして反面教師でもあった。
解放者の顔をしてやってくる支配者。。。」
「宇宙は巨大だ、したがって、秩序崩壊、エントロピーの開放・逆流、熱的死までには時間がかかる。
膨大な時間が。。。
颱風のような巨大な渦巻きと洗面器の渦巻きの寿命の違いを考えてみてほしい。
帝国も巨大な方が寿命は長いらしい。。。」
大日本帝国の靈が戦勝国アメリカに取り憑いて呪っている!
原爆を落とした帝国アメリカを。。。」
コロス
「悪霊は死なない。
帝国官僚は王政時代を、
度重なる革命を生き残って、
今も生きている。
人々を搾取し支配する本能の化身。
”開放を支配に転化せよ!”」
『第一幕』
コロス
「ぶつかる魂たちを喰ひ尽くし、ボクは個性開眼の糧とすること!」
山本、両掌で顔を覆いつつ
「なんで”言葉”がこんなところまで追いかけてくるのだろう?
ところでいったいここはどこだ?
死?
死と詩?
ふふ。おれは死後の生なんか信じないぞ!
信じることと救われることがセットになっているのが宗教。
信じないし救われないのが詩。。。
オレは詩人だからな。」
コロス
「詩の可能性というものに限界はない。けれども無限の可能性といふことも、実践されなければ単なる夢想にすぎなくなる。」
「山本太郎の作品のやうな詩を、私は以前、予想したことがなかつた。」
「わたしにとつては不思議なシヤワアを浴びるやうな思ひがする。」
山本
「心平さん? 草野さん?」
コロス
「戦争といふ大きなマイナスの栄養が、日本の詩にとつては一面、劃期的なプラスになつたといふことは、もしも戦争がなかつたならば、詩の世界でこのやうな変貌はなされなかつた、とはつきり言へる程の、未知の可能性の大拡張がなされたからである。」
「これは犠牲の、思ひがけない報酬だつた。」
山本、その先を思い出し、青くなる。
コロス
「山本太郎は、そのやうな世界での特異なチャンピオンとして出現した!」
コロス
「歩行者の祈りの唄といふ、この本の題名は、彼の精神の、いまの状態を象徴してゐるものと思はれる。とすれば、歴史といふものも最早考へる対照や譬喩の遠近法ではなくなつて、ヂカに感覚されるもの、従つて光の後について原始や未来の間を往復しなくてはならないことになる。ー現代のために。」
山本、膝から崩折れる。
コロス
「これは幸福といふことでは恐らくない。といつて幸福への要望が人間の特質であるとすれば、詩人にとつては、歌ふといふこと以外に表現のてだてはない。」
「詩人とは颱風の眼である。」
「つながる外部の暴力を、その眼はしづかに映像する。」
コロス
「そうしてここでは、現在の颱風的事象を串刺しにして、祈りがそのかなしい串になつて歌はれてゐる。」
「山本太郎は、今度もいろいろと自分を形成してゆくだろう。」
「然しそのことは、何れは彼も死ぬことになつてゐるといふことと同じである。」
「当たり前なことにすぎない。」
「今後どのやうな詩を書くか、それも私にはわからない。」
「けれども歩行者の祈りの唄は、二十世紀後半に、こうした詩が地球上にあつたと未来の人々が言ふほどのことはある。」
「成る程ある。」
「現在でもそのことは、はつきり分る。」
山本
「一九五四・一〇・二九 草野心平。。。」
コロス沈黙。ものすごい風の音。