アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

6・11   脱原発サウンド・デモに参加し「素人の乱」の偉さについて考える。そして「原発 デモ 新宿 ミーハー」で検索してくる東電のおごりについて。

私は一介の生活者として、ノンポリで通してきたので、それが逆に幸いして、右翼とか左翼とかに関する具体的なイメージもなく、偏見も少ないのではないかと思う。どちらの立場の人でも、尊敬すべき人は尊敬したい。そもそも、そんな分類には興味がなく、もはや意味も持たないと思う。自分の中に、シュタイナーの影響によって、民族主義国際主義という分類はあるが、それは現在の段階で日本人が国際社会(佐藤優の云うところの新帝国主義の時代)に生き延びるために必要な両極性であって、決してどちらかひとつの極だけで成立できるものではない。既製の右翼・左翼という枠組みは既にあまりにも形骸化し、運動のイメージも汚れてしまったので、強烈な魅力を感じることは、もはや誰にとっても難しい。

一方、あらゆる政治活動とは無縁だが、この危機的・臨界的な状況のなかで、民族として、東洋人として、あるいは人類の一員としてともかく生き延びる術を模索し始めた階層が、この現在の日本に確かに存在し、その無意識に胚胎している思想がある。そこでは、今までのように、個人として他者と競争して生き続ける生活はもはや破綻していることの認識が、痛切な実感として共有されている。だからと云って、全体主義国家主義的な方向で、個人的自由が抑圧されることも受け入れがたい。

東電の原発事故によって明らかになってきた事態が許し難いのは、その中に、確実に「原発権力」による人間的自由の抑圧・剥奪という核心が存在するからである。「原発権力によるむき出しの人間的自由の抑圧」という核心部分を隠蔽するためにこそ、莫大な額の金と労力が注ぎ込まれ、新聞・テレビ・御用学者・テレビ文化人等々の買収も行われたと、今の私は思っている。「原発の安全性」という論点のすり替えによって、「原発と自由」という最大の問題点がむしろ隠蔽されたのである。「原発の安全性」は、技術論に過ぎないが、「原発権力の存在による人間的自由の抑圧・剥奪」なる世界的問題は、いわば、現代人の存在意識の根幹神経に触れてくる問題なので、発火すれば革命になってしまうだろう。現代の人間が、革命的な行動を起こす動機は、自分(たち)の自由の問題をおいて他にない。そのことを東電幹部が自覚していたかどうかは、むしろ論外である。そのような人間的自由を冒涜する衝動が現代的悪の本質であり、彼らはそれに忠実だったに過ぎないのだ。

一体、原発存在・原発権力がいかにわれわれの自由を抑圧し剥奪しているのか。そのことは今の所、言語化されて明確に意識され、共有されているわけではないかも知れない。しかし、「素人の乱」のサウンド・デモに参加する若い人(精神の若い人)の、無意識のなかに、確実にこの問題意識は存在している。「素人の乱」は、それを敢えて言語化しないことで(言挙げせず)、この思想の胚胎しているものの巨大さ、尊さを汚すことを免れている。政党的人物や、社会学者の言動は、どうしても排他的、限定的であって、うつろに響く。この胚胎している思想の人類史的意味をなで回すことすら出来ていない感を免れない。それら既製品の言葉が追いつかない事態が到来していることを正直に打ち明けている松本哉とその仲間たちの態度こそが圧倒的に正しい。

素人の乱」のサウンドデモが支持される理由は、その無限定な包容力にある。ごく気楽な感じなのだが、巧まざる采配が潜んでいる。言葉には敢えて出さないが、本当に誰でもが参加出来るデモ、楽しいデモ、何よりも生きている自由、人間である自由を実感できるデモをしたかったのだと思う。その思いが、参加者には確実に伝わっている。次のデモも大成功間違いない。

一方で、東京電力が、「原発 デモ 新宿 ミーハー」で、検索してきた。東電のアドレスで、

tproxy102.tepco.co.jp

である。月曜日13日の午前中である。土曜のデモの情報を早速収集し始めたと言うことか。東電の誰のパソコンなのか、もちろん、私には分からないが、東電の社員の意識は、未だにこんなものなのだということになる。現状に対する反省は感じられない。デモに対する侮蔑がにじむ。デモする人間たちの危機意識も、現状認識も、全く共有できていない。やはり、東電は潰さないと、日本の他の電気会社の意識も変わらないだろう。

また、県・市町村の役場の人が放射能汚染関連で検索してくる例は多い。現実に汚染が進行する中で、どう対処すべきか調査しているのだと思う。九電は玄海の件で、よくアクセスしてくる。東電の二の舞になれば、まず自分たちの職場もなくなるわけで、九電労組も原発停止・脱原発に動くべきだと思う。