アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

(複雑系としての)工学的現象の制御不能性は非線形力学系の数学的帰結でもあり、巨大なエネルギーを前提にする原子力発電は原理的にも安全性の保証が不可能であること

今日は午後から雨がやむという予報だったので、ガソリンを温存して、昼から自転車で仕事に出るつもりだったが、小雨が止まない。たとえ放射能は微弱ではあっても、神経質な私は雨に濡れながら26km走るつもりにはなれなかった。放射能雨と云えば、子供の頃を思い出す。頭が禿になるから濡れないようにと云われたものである。ハゲはイヤだったので、傘を差して、気をつけて歩いたが、50年後の今になってみれば同じことだった。アメリカも、フランスも、旧ソ連も、中国も、イギリスも、大気中で核実験(原爆、水爆の実験)をしていた1950-60年代の話だ。つまり、私が子供の頃は、atomic age(原子の時代)と呼ばれ、今よりもずっと放射能まみれの時代だったのだ。鉄腕アトムが白黒アニメで放映されていた頃で、テレビ(白黒)も普及し始めてまだそれほど時間が経ってはいなかった。太平洋でアメリカの水爆実験による死の灰を浴びたマグロ漁船・第五福竜丸の事件も、まだ生々しく報道されていた。放射能汚染されたマグロが処分される白黒の映像を子供の頃映画館で見た記憶がある。その頃の人類は今よりも愚かだったのは確かだろう。それからわずか半世紀の間に、人類はずいぶん歳を取ってしまった。そして、そのような無知に基づいた蛮勇を失った。しかし、未だ悟りきれないわれわれは、科学・数学の達成しつつある水準と現実認識の間のギャップを埋めることが出来ない。たとえば、ローレンツ方程式に代表される非線形力学系研究の発展によるカオスの発見は、古典的な因果律が実質的に破綻するケースが実はありふれた事実であることを示す。すなわち、人間の制御精度を超える微少なパラメーター(変数)の変化が予期できぬ事象の激変をもたらす場合がいくらでもあると言うことがわかっている。その意味するところは、結局、あらゆる現実の工学的対象(非線形である)においては、制御可能性が破綻する可能性が否定できないと言うことである。そしてそのような制御不能の可能性は、対象が複雑性を増せば増すほど大きくなると云える。その意味で、原発のように、原理的にも装置としても複雑性が極めて高い系の制御が破綻することは当然想定可能であった。しかし、核反応のもたらすカオスという恐怖がすぐそこまで迫って来たこの3月までは、日常性に埋没することで、(少なくとも私は)原発事故の可能性という厄介な問題に目をつぶったまま生きてきたわけである。
これ以上ハゲになる可能性のない私ではあるが、やはり放射能雨はイヤだったので、結局車で出勤することにした。部屋に入ると、走査型電子顕微鏡の真空ポンプが一人で動いていて、しばらくスタッフが来ているものと勘違いしていた。地震の時の突然の停電で退室したままの実験室に再び電気が戻り、スイッチはオンになったままだったので、動いていたわけだ。皆遠方から車で通勤しているため、私以外は、やはりガス欠のせいで、誰も出て来ていない。差し迫った用事だけを済ませてから、必要な文献を旅行鞄に詰め込んで、崩壊状態の部屋はそのままにして帰宅する。しばらく自宅で仕事をすることに決める。
行きにはロープを張って閉店していたガソリンスタンドが、帰りにはロープを外して、給油する車の整理を始めているところだったので、並ばないでガソリンを満タンに出来た。ちょうど開店したばかりだったらしい。運が良かった。次のガソリンの供給の予定はまだはっきりしないと云うことだが、急遽動員されたらしく、店員がいつもの倍はいるようだった。これからまた長い列が出来るのだろう。牛久のはずれにあるENEOS
それにしても、いつまでも、余震が続く。
"物理の神"の眼から見れば、われわれが慌てふためいている福島原発事故(今は貯蔵プールが焦点になっているようだ)も、単に放射性同位元素が熱力学的な平衡に向かって成すべき事をなしている(自然崩壊している)だけの事象に過ぎない。ただ、その際の熱力学的な非平衡性が本来人間の手に余る(人間の手を漏れると云うべきか)大きさであることと、漏洩した放射性同位元素(死の灰)のベータ崩壊に伴って発生するガンマ線が生体をDNAレベルで損なうことが、人間に計り知れない恐怖を強いているに過ぎない。この集団的・民族的恐怖体験において、顕現した恐怖の神を前にして、今までのように”見ないふり”をするのではなく、むしろ目をしっかりと見開くことである。そして、われわれの物質文明を支配するこの”神”の正体を知ることこそ、生き残った我々の課題であり、不慮の死を遂げた数万の方々の霊を真に弔うことになるはずだと考えている。