アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

手持ちの武器で闘え

MGMが経営難になり、007新シリーズの第三作の行方が分からなくなった。
私は、新シリーズは好きだったので、心配している。第二作のエンディングは、ボンドが改心して組織に復帰できたことをほのめかしていたが、私としては、カムイのような抜け忍ならぬ「抜けスパイ」路線も少し期待していたのだ(間抜けなスパイと云う意味ではありません。念のため)。新シリーズの血みどろリアル格闘シーンで、私は、ボンドの戦い方に感銘を受けた。彼は手ぶらで敵の部屋に入っていき、そこらに転がっているものすべてをうまく利用して、酷薄な顔をした強力な相手を倒す。実に示唆的である。手持ちの武器どころか、手ぶらだったのだ。武器は、自分の過去の人生経験だけなのだ。仲間に頼るわけでもない。たった一人で、敵陣に乗り込んで行く。

唯物論。現代の日本で、それを意識している人は少ない。自分たちが唯物論者であることを意識すらしない状態が、もっとも唯物論的な時代なのだと、シュタイナーは云った。今、まさしく、その通りの現実がある。癌発のことである。もとい、原発のことである。唯物論者の弱点は、意志が世界を作るのではなく、物質が世界を作ると勘違いしている点である。実に受動的なのだ。唯物論的には、人間は環境の産物に過ぎないので、いかに与えられた物質的環境に適応するか(そして生存競争に勝つか)がすべてなのだ。だから、原発を無くした世界を自分たちの意志する対象として構想するのではなく、既にある原発が支配的な環境であって、そのなかで受動的にしか、今後の世界を考えることが出来ない。いろいろな数字を並べては、あれやこれやもっともらしい意見を述べることだろう。しかし、彼らは、自由なる人間の意志を発揮する機会を自ら放棄しているだけなのだ。原発など無くても、どうにでもなる。要するに、意志的な選択の問題に過ぎない。しかしこれは、今後の日本人・人類の運命を決定するような、重要な選択の問題だ。
今後、人死にも出るかも知れない「放射能戦争」の源泉である原発を五十基以上もこの狭い日本に並べて悦に入っていたのだから、愚かの極みであった。日本人は民族的な自殺行為に走っていたのだ。軍事的な防衛を論ずる人たちが、まず初めに、原発廃止運動から始めなかったのも、失敗だったが、今からでも間に合う。防衛論者たちも、原発廃止に立ち上がるべき時だ。核兵器武装しようと云うことも同じで、核戦争では、広い中国と狭い日本では、まず初めに日本が滅びるのは小学生にも理解できるだろう。核武装は、核攻撃の口実を相手に与えてしまうだけだ。こう言っては申し訳ないが、核武装論者は頭が悪いのだろう。
しかし、何よりも、今回の大災害によって、いかに日本が世界中から愛されているかに気づいて、日本人自身が呆然としている。今までの弱腰で、文弱の日本、経済大国なのに、アメリカ主導の戦争に軍隊を出そうとしない・出せない日本の姿勢は正しかった。私は自衛隊は、必要だと思う。しかし、それはあくまでも、理不尽な攻撃から日本人と日本の文化を守るためであって、憲法九条にしたがって、国際紛争解決の手段としての戦争のための海外出兵はお断りし続けることだと思う。北朝鮮でさえ、貧乏なのに、義援金を出してくれたし、中国も、原油を供給してくれている。ロシアも真っ先に、エネルギー支援を申し出てくれた。しかし、管内閣には、この極東平和再構築の絶好の機会を活かす度量は、もちろん無かった。
国家としてのアメリカは、属国日本支配における存在感を演出すべく、がんばっている。もうすぐクリントン夫人も来る。彼らは、演出はうまいが、実質的にどのていど貢献しているのかは大いに疑問に思っている。逆に傭兵と考えるにしても、思いやり予算(年間1881億円)に相当する働きはしていないだろう。福島で命を削りながら作業を続けているのは、あくまでも日本人労働者たちだ。特効薬的な作業を米軍特殊部隊が遂行するというようなことは、幻想に過ぎない。臨界に達して、中性子線が飛び交う状態になれば、いかなる作業も不可能で、すべての人員が逃げ出すほかにない。もちろん、米兵一人一人の善意を疑うつもりはない。多くの米兵たちは、日本人の目からみれば、アメリカ帝国の犠牲者だと思う。