アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

シュタイナー講演録『人間の魂と動物の魂』1910(明治43)年11月17日#9

Wir finden nun in der Tat diese Kräfte wieder in einer ganz charakteristischen Weise für den Fortschritt des Geistes am Menschen deutlich hervortreten.
事実、
これら諸力が、
再び、
全く特徴的なあり方で、
人間における靈の発達のために明確に現出することを、
われわれは見出すのであります。

Was der Mensch in der Ausbildung des Gleichgewichtssinnes leistet,
das finden wir im späteren Leben wieder,
wenn er derselbe Kraft für die Ausbildung seiner Gebären anwendet.
人間が平衡感覚を構築する際に行使されるものと同じ力が、
この後に身体の行使(仕草)を身につける際にも使われることが、
見出されるのであります。

Die Gebärde ist etwas,
人間の仕草とは、

was uns tatsächlich in das tiefere Gefüge der menschlichen Organisation,
insofern der Geist im Menschen lebt,
hineinführt.
人間において靈が生きている限り、
現実に、
人間有機体深部における機構に通じているものなのであります。

Und indem der Mensch sein Inneres in der Gebärde zum Ausdruck bringt,
人間が、
その内面を、
仕草として表現する際には、

verwendet er dieselbe Kraft,
die er erst verwendet,
um den Gleichgewichtssinn zur Herstellung einer gewissen Gleichgewichtslage zu erringen.
平衡感覚によってしっかりと均衡の取れた姿勢を取るために先ず用いられる力と同じ力を用いるのであります。

Was der Mensch beim Gehenlernen,
beim Stehenlernen handgreiflich entwickelt,
人間が学ぶことを始め、
さらに学び続けることによって、
粗雑な形で発達させるものが、

das erscheint uns also verfeinert,
vertieft,
verinnerlicht im späteren Leben,
wenn es,
statt körperlich zur Darstellung zu kommen,
mehr seelisch zur Darstellung kommt in der Gebärde.
身体において現れる代わりに、
後に仕草においてより魂的に表現される場合、
われわれには、
それがまた洗練され、
深化され、
内面化しているようにも思われるのであります。

Daher fühlen wir uns erst so recht intim in das menschliche Innere hinein,
wenn wir einem Menschen gegenüberstehen und seine Gebärden,
die ganze Art und Weise,
wie sich in seinen äußeren Bewegungen das Innere ausdrückt,
auf uns wirken lassen können.
すなわち、
われわれが一人の人間と向かい合い、
彼の仕草がその技巧とあり方のすべてをもって、
外的な動きによってその内面を表現し、
われわれに働きかけてくるとき、
彼の人間的な内面を親しく感じることは、
全くもって正当なことなのであります。

In dieser Beziehung ist eigentlich jeder Mensch mehr oder weniger ein feiner Künstler gegenüber seinen Mitmenschen.
この意味では、
まことに、
すべての人間は、
隣人に対して、
多かれ少なかれ、
すばらしい芸術家なのであります。

Wenn man eingehen würde auf feine psychologische Wirkungen,
die von einem Menschen zum anderen gehen,
もしわれわれが、
一人の人間が相手に及ぼす繊細な心理の働きを理解できたとすれば、

so würde man sehen,
daß unendlich viel davon abhängt
- ohne daß es sich die Menschen zum Bewußtsein bringen -,
wie die Gebärde als Ganzes genommen auf einen Menschen wirkt.
(当事者たちがそのことを意識しないにしても)
彼の仕草総体が相手に受け止められ、
相手に働きかけるあり方に、
無限に多くのことが意味されていることがわかるでしょう。

Das braucht nicht in das grobe äußere Bewußtsein einzutreten,
これは、
粗雑な外的意識に上る必要は無く、

es tritt aber darum doch in die Seele ein
まさしく魂において生じることであって、

und äußert sich dann besonders in Wirkungen,
wo das äußere Bewußtsein unzählige Intimitäten,
die sich unter der Schwelle des Bewußtsein abspielen,
特に、
外的な意識が、
識閾下において数え切れないプライベートな感情を表現する働きとして現れるのであります。

einfach grob in Worten zusammenfaßt wie:
これをごく大雑把に言葉にすると、
たとえば、

er gefällt mir,
彼は私が好き、

er gefällt mir nicht,
彼は私が嫌い、

oder sie gefällt mir,
あるいは、
彼女は私が好き、

sie gefällt mir nicht.
彼女は私が嫌い、
等々。

シュタイナー講演録『人間の魂と動物の魂』1910(明治43)年11月17日#8

Auch da bleibt dem Menschen ein Spielraum,
das Leben in einer ganz gewissen Weise in die Form hineinzugießen,
ここでも、
人間にとっては、
ある特定の仕方で生が形態に流れ込む自由が残されているのであります。

so daß wir nur vorauszuschicken brauchten,
それに対して、

daß wir,
wenn wir eine tierische Form mit unserem plastischen Sinn studieren,
われわれが、
具体的な解釈をもって、
ある動物の形態を研究する際には、

uns viel mehr für das Allgemeine,
für das Gattungsmäßige,
Generelle interessieren
すぐれて全般的な、
属に依存するような、
一般的な関心を行使すること、

und die indivisuellen Formen sehr vernachlässigen.
そして、
個別的な形態は無視してよいことが、
予想されるだけでよいのであります。

Beim Menschen interessiert uns das edelste Organ
- als das Organ des Skelettes -
人間の場合には、
最も古い器官(骨格のような)がわれわれの興味を惹きます。

der Schädelbau,
ganz besonders in seiner Plastik.
頭蓋骨の造形は特別であり個別的なのであります。

Und er ist bei jedem Menschen ein anderer,
weil er offen bleibt für das,
was dem Menschen in dem Ich zugrunde liegt,
für das Individuelle,
つまり、
頭蓋骨はすべての人間において異なっており、
われわれの根底にある自我・個人のための、
自由度が存在するのであります。

während er beim Tier das Gettungsmäßige zum Ausdruck bringt.
一方、
動物の場合には、
頭蓋骨の表現は属がもたらすものなのであります。

Wen wir also den Menschen beim anderen Ende anfassen,
また別の極点から人間を見た場合、

dann finden wir,
われわれが見出すことは、

daß er während gewisser Zeiten des Lebens freien Spielraum innerhalb der Ausprägung des Gleichgewichtssinnes,
des Eigenbewegunssinnes und des ganzen Lebenssinnes hat.
人生のある期間においては、
平衡感覚、
個人に固有な動作感覚、
そして全般的な生命感覚の表出に関して、
自由の余地をもっているということなのであります。

Das Interessante ist,
興味深いことは、

daß wir sozusagen diese Arbeit des Geistes am Menschen,
この人間への靈の働きかけとでもいうべき、

diese Ausprägung des Geistes in Form und Bewegung im Beginne des menschlichen Lebens sehen können:
形態と動きへの靈による刻印は、
人間の生の初期に見出されるということなのであります。

wie in der Erringung des aufrechten Ganges,
すなわち、
直立歩行が可能になること、

in der Erringung des Eigenbewegungssinnes und in der Ausprägung der Körperformen sich diese Kräfte wirklich betätigen und zum Ausdruck bringen.
固有の動作感覚を獲得すること、
そして身体形態の刻印において、
これらの諸力は実際に働き、
表現として実現しているのであります。

Dann aber hört in einem gewissen Lebensalter die Möglichkeit auf,
daß die Kräfte,
die in der Kindheit frei speilen,
weiter einwirken.
しかるに、
その後、
ある一定の年齢になると、
子ども時代に自由に作用していたこれらの諸力が、
さらに働きかけてくる可能性が途切れてしまうのであります。

Mit einem bestimmten Lebensalter sind diese Kräfte in Bezug auf die Wirkung,
die wir charakterisiert haben,
abgeschlossen.
人生のある決まった時期になると、
これらの諸力が、
われわれが性格付けしてきたような働きを終えてしまうのであります。

Wenn sie aber wirklich in dem Menschen als Individualität darinnen sind,
können sie nicht auf einmal verschwinden,
しかし、
これらの諸力は、
実際には個人としての人間の内部に存在し続けるのであって、
いきなり消えてしまうようなことはあり得ないのであります。

wenn sie ihre Arbeit in Bezug auf ein gewisses Gebiet getan haben,
sondern sie müssen uns in einer späteren Lebenszeit wieder entgegentreten.
ある決まった領域における仕事を終えた後で、
それらは消えてしまうのではなく、
後の人生の或る時期において、
再びわれわれに対峙するのであります。

Wir müßten für das spätere Leben nachweisen können,
daß diese Kräfte da sind,
Realitäten im menschlichen Leben sind.
これら諸力が、
後の人生においても存在しており、
人間の生における実在であることを、
われわれは示すことができることは間違いがないでしょう。

万能細胞の夜(七月の改稿)

ある晩
小保方博士の試験管から逃げだしたSTAP細胞猫は
空腹のあまり博士を食べてしまいました

気がつくと”彼女”は
持ち前の万能細胞力で
自ら博士の姿を再生していたのです

純情な彼女は
上司と理研の圧力を真摯に受け止め
博士の名誉のために論文を執筆し
”ネーチャー”に投稿しました

「どうして人間は競争するのかしら?」
 猫は闘争し競争しない
 猫は剽窃し建設しない

「でも雨は苦手
 人間の世界で私はどうしたらよいのかわからない」
 
      〈一匹の猫が日本を徘徊してゐる

   〈〈すなわち万能細胞の怪物である

〈〈〈古い日本のあらゆる権力は
  この怪物を退治するために神聖同盟を結んでゐる〉〉〉

本当のことを言っても
だれにも信じてもらえない
悲しい夜
明るい満月の屋根の上で
猫たちがあなたのすてきなキャット・ウオークを夢見ている

シュタイナー講演録『人間の魂と動物の魂』1910(明治43)年11月17日#7

Hier geht es auch nicht,
daß man den Menschen mit den nächststehenden Tieren vergleicht.
ここで、
人間を、
人間に最も近い動物と比較することも意味がありません。

Wenn man eingeht auf die vergleichende Anatomie,
auf alle einzelnen Organe,
われわれが比較解剖学にうったえて、
あらゆる個々の臓器を調べたとしても、

so würde es kindisch sein von der Geisteswissenschaft,
wenn sie eine Kluft annehmen würde zwischen dem Menschen und den nächststehenden Tieren.
人間と人間に最も近い動物の間に断絶を見る霊学の立場からすれば、
それは児戯に等しいことなのであります。

Aber in dem Organisationsplan des Tieres liegt ein vorbestimmtes Gleichgewicht.
しかし、
動物の器質形成の結構には予め定められた均衡が存在しております。

Beim Menschen liegt die Möglichkeit offen,
nach der Geburt dieses Gleichgewicht erst herzustellen.
人間の場合には、
このような均衡は、
誕生の後にまでその実現可能性が残されているのであります。

Es liegt aber noch mehr an Möglichkeiten offen.
それ(均衡)はさらに可能性として残されているのであります。

Beim Tier ist durch die eingeprägte
- wenn man das Wort gebrauchen will -
vorbestimmte Organisation die Richtung der Eigenbewegung angegeben.
動物の場合には、
(われわれにこのような言葉を用いる気があれば)
刻印付けられた、
予め確定した器質形成を通して、
固有の行動指針が与えられているのであります。

Beim Menschen bleibt wieder die Möglichkeit offen,
sozusagen innerhalb eines gewissen Spielraumes seinen Eigenbewegungssinn zu entwickeln.
人間の場合には、
言うなれば、
固有の行動の意味に対して、
ある種の余地があって、
その内側において、
発達する可能性がここでも自由なのであります。

Noch mehr bleibt beim Menschen offen
- wir werden darauf noch zurückkommen,
wir das sich anders äußert -:
人間には、
さらに、
(この点は後に再度、
どのように別の言い方がなされるか、
触れることになるでしょう)、

eine gewisse Möglichkeit,
in die Organisation selbst das Leben hineinzuprägen.
その生を自ら器質形成に刻印すると言う、
ある種の可能性の自由もあるのであります。

Man kann ganz gewiß von einer gewissen Prägung des Lebens in einem Lebewesen sprechen.
個々の生き物に対する、
その生の刻印について、
われわれは確信をもって語ることができます。

Oder wer würde mit einigem plastischen Sinn nicht merken,
daß sich die Organisation einer Ente an den plastischen Formen zum Ausdruck bringt ?
鴨の器質形成がその具体的な形態において表現するものについて、
その具体的な意味に気がつかない人がいるでしょうか?

Oder daß sich die Organisation des Elefanten an den plastischen Formen zum Ausdruck bringt ?
あるいは、
象の器質形成がその具体的な形体において表現するものについて?

Und daß vorzugsweise das Skelett,
そして、
特に、

wenn wir es anschauen,
われわれが骨を観察した場合には、

im Unterschiede zu den einzelnen Tierarten uns Rätsel über Rätsel enthüllt,
個々の動物における違いにおいて、
その謎が次々に解き明かされ、

wie sozusagen das Leben in die Form hineinschießt,
言うなれば、
あたかも生が形態の内に突進して、

in der Form sich verfängt und uns wie erstarrt erscheint ?
形態に巻き込まれ、
凝固しているかのように見えるのではないでしょうか?

聖ギロチン(七月の改稿)

同僚のK氏。
夢の中の私にはこれから起こる怖ろしいことがわかっているらしい。
夢を見ている私にはその怖ろしさだけが伝わってくる。
それはおそらく地面を通して。
肥満気味のK氏のズボンの股間が膨らんできた。
私は、ああ、始まってしまったと思う。
K氏の顔に浮かぶ激しい動揺の表情。
そして、K氏全体が膨らみ始めた。

同時にK氏の身体は、風船のように宙に浮いたようだ。
K氏の顔が膨張し続ける。
破裂するK氏。

しかし、彼の血は四散せず、大きな血のプールになって宙に浮いたままだ。
宙空に浮かんだ半球状の血のプールに、肉に突き刺さった骨と化したK氏がその上体を露わにしている。
それは大きな骨付き肉の塊のようだった。

  ★

罪は死骸の中にしか存在しない
われわれを救うことができるのは
ある聖なるものだけだ
記憶の壊変
不死の神々は質量の中に降り立ち
元素となった
詩的機械が轢殺していく
K氏とK氏とK氏の魂
二十一世紀の時間軸は既にへし折れている

鳩殺し
復讐の女神たち

「何故? 誰が世界を、こんな風にしてしまったんでしょう」

記憶の半減期
あらゆる死骸は忘却の元素でできている

  ☆

聖ギロチンは遅刻してやってくる

嘘について(七月の改稿)

書くことは世界から孤立した事象であって、
書かれたことそれ自体にしか勝利も救いも無い。
言葉と宇宙の等価性。
しかし今やだれがそれを信じるというのか? 
ロゴスの孤独。
もはや自らそれを引き受けること以外に栄光は無い。

数学も哲學も”言葉”で世界をつかまえようとする。
それは捕虫網で神を捕らえようとする試みに等しい。
しかし夏休みはとうに終わっている?

夏休みが終わっても宿題が終わらなくても捕虫網を振り回すこと。
美しい蝶。
神様の身替わり。

    *

『・・・なるほど。日本をどのように好きですか。』

「変な言い方をすると、自分の肉体のような感じ。外國ではそれが無いように思える。自分の肉体で初めて憩えるみたいな感じ。あまり客観的な分析をしたくないような気分があります。愛。愛を分析したくない。」

『愛はもともと分析するものではないですからね』

「 そう。日本と自分を分離することの難しさもある。国家という意味では無い、もっと肉化された日本が自分と一体化してる。 日本をほんとうに自分と分離して考えることのできる日本人がいるかどうか、という気もする。なぜならば(少なくともぼくにとっては)日本語が日本の芯にあるので。」

『 やはり日本語は重要ですか?』

「右翼=民族主義愛国者、という通俗的な意匠を自分に被せるとすれば、それは、日本語と自分が一体化・肉化した姿を表しています。だから、日本語の可能性を探る・高めることが、自分を高めることなのだと、思う。何か、たとえ一時でも、良い詩を書いたと思えた時の満足・高揚感は、恐らく、その事實に關係している。 逆に言うと、いくら勉強していても、普段の書かない時間は、何か、義務を果たしていないような焦りがあります。」

「ぼくはいつも、なぜ噓が人を傷つけることができるのかについて考えているのですが、今の考え方が何かヒントになるような気がしました。」

『 嘘と関連しますか?』

「 人間の本質が言葉の肉体であれば、それは同質のもの(偽の言葉)によってしか、致命的な傷を与えることはできない。」

『 なるほど』

「 キリストも、悪は人間の口から出てくるという意味のことを述べたと思います。」

『 その傷つけることにおいて虚偽という性格はどうはたらいているか。わたしもcurse(呪いのことば)の傷つける力については気になっています。 呪詛は嘘ではないし、また単なる罵倒と重ならないところもありますが…』

「呪詛よりも、噓の方が、相手に深い傷を与えることができる。呪詛はstatementとしては真実です。 相手に本心を明かしていますから、相手は防御も可能になる。」

『 逆に言うと、嘘は相手を防御不可能な土俵に引き込むということですか?』

「 そうだと思う。」

『 嘘は、それが嘘だったと判明したときに傷つけるのでしょうか。それとも、いわれのない勝手な決めつけが、自己の私秘的なものへの侵入が、ひとを傷つけるか』

「 相手を、なにが噓でなにが噓でないかが、わからない状態に陥らせることが、噓の致死力の本質では無いでしょうか。あるいは、相手の言葉の肉体を噓の網のようなもので包んで、身動きをとれなくしてしまうのかも知れない。」

『そういう嘘は、自分の記憶への信頼を喪失させますね』

「 むしろ防御のための噓もある。しかし、噓は触れれば手を切ってしまうカミソリのようなものなので、単なる防御に終わらせることが出来ない。それはおそらく噓を発する者の意図しないものでしょう。双方ともに傷つく。それが噓の怖ろしさ。」

「 自然が与える謎は科学を生みましたが、スピンクスの与える謎のように、人間を滅ぼす謎もある。実際には、受け取る側にとっては、噓と謎の違いが不分明なことが、人間的な錯誤の始まりかも知れません。噓には意図がありますが、噓をつかれる相手には、なにかの謎に思えてしまう。噓だと判断できない。」

『 そこには、言葉の微妙なところがある。言葉はつねに謎の性格を保持している。すなわち、ひとつ解釈に踏み込まなければ語の意義が示されない(たいてい、言葉は踏み込むべきところを開けておいてくれているようにみえるが)。たとえば文脈が、解釈のために踏み込むべきところを教える。 嘘は、解釈者が解釈において真相に踏み込んだときに、瓦解するような言葉の組み合わせであると言えそうである。逆に言うと、嘘をつく者は、踏み込まれる恐れのある真相を示唆する言葉を言わないでおく』

「 そのような謎めいた態度がむしろ効果的な噓の場の引力として働いて、彼は蟻地獄の底までずり落ちていき、すべての血を吸い取られてしまう。しかし彼はきっとそのとき恍惚とした表情を浮かべているに違いないのです。そうでしかありえなかった。」

『 まるで夢ですね』

    *

「まだ街が目を閉じているみたいですね。彼等が目覚めると、この街は消えてしまう。」

『ソドムとゴモラのように・・・』

ランゲの首(7月の改稿)

すでに朝日の射す部屋には血の匂いが立ち籠めていた。
病気の猫の身体が血の分子になって部屋の大きさにまで拡大、
飛散していたのである。
エーテル化した猫の身体の中で、
朝日を浴びるぼくの思念は集中と拡散を鼓動しながら、
宇宙の生命の輪郭に触れようとしていた。

  ★

忘れられた思想家
ランゲの伝記作者たちにも
彼が一匹の猫を飼っていたことは知られていない
一七八〇年九月二七日
白昼のパリで逮捕
収監されたとき
彼の部屋に猫はすでにいなかった

「逃亡する私は燃える言葉の塔だった。王の、貴族の、農民の、階級の、重圧の、鈍重の、濫費の、貧窮の、燃えさかる、言葉の塔だったのだ。生きようとする者たちの夜明けの痛みが、天に届く寸前のバベルの塔のように、立ちあがってしゃべり出した。」

−どんな呪いも愛情には勝てない。愛情それ自体がもっとも強い魔術であり、それ以外の魔術はどんなものでも愛情には及ばない。しかしその愛情もかなわない力が一つだけある。それはなんだろう? 火でもなく、水でもない、空気でもない、大地でもなければそのなかに埋まっている鉱石でもない。時間である−

「石の壁のなかに幽閉されたものは私の身体なのか? 幽閉されたものは、三重の壁と三重の格子のなかに幽閉されたものは、それは時間ではなかったのか? あの時、燃えさかる書物、燃えさかる書物の山頂で垂訓したのは、私だったのか?」
 
燃えさかる言葉は忘却され
時間という灰になった

  ☆

ギロチンの血だまりを越えて
一匹の猫が
歴史の回廊をゆっくりと近づいてくる
赤い小さな足跡

神曲『天国篇』に顔を埋めて
ランゲの首が
ぼくの図書室で静かに眠っている朝