アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

嘘について(七月の改稿)

書くことは世界から孤立した事象であって、
書かれたことそれ自体にしか勝利も救いも無い。
言葉と宇宙の等価性。
しかし今やだれがそれを信じるというのか? 
ロゴスの孤独。
もはや自らそれを引き受けること以外に栄光は無い。

数学も哲學も”言葉”で世界をつかまえようとする。
それは捕虫網で神を捕らえようとする試みに等しい。
しかし夏休みはとうに終わっている?

夏休みが終わっても宿題が終わらなくても捕虫網を振り回すこと。
美しい蝶。
神様の身替わり。

    *

『・・・なるほど。日本をどのように好きですか。』

「変な言い方をすると、自分の肉体のような感じ。外國ではそれが無いように思える。自分の肉体で初めて憩えるみたいな感じ。あまり客観的な分析をしたくないような気分があります。愛。愛を分析したくない。」

『愛はもともと分析するものではないですからね』

「 そう。日本と自分を分離することの難しさもある。国家という意味では無い、もっと肉化された日本が自分と一体化してる。 日本をほんとうに自分と分離して考えることのできる日本人がいるかどうか、という気もする。なぜならば(少なくともぼくにとっては)日本語が日本の芯にあるので。」

『 やはり日本語は重要ですか?』

「右翼=民族主義愛国者、という通俗的な意匠を自分に被せるとすれば、それは、日本語と自分が一体化・肉化した姿を表しています。だから、日本語の可能性を探る・高めることが、自分を高めることなのだと、思う。何か、たとえ一時でも、良い詩を書いたと思えた時の満足・高揚感は、恐らく、その事實に關係している。 逆に言うと、いくら勉強していても、普段の書かない時間は、何か、義務を果たしていないような焦りがあります。」

「ぼくはいつも、なぜ噓が人を傷つけることができるのかについて考えているのですが、今の考え方が何かヒントになるような気がしました。」

『 嘘と関連しますか?』

「 人間の本質が言葉の肉体であれば、それは同質のもの(偽の言葉)によってしか、致命的な傷を与えることはできない。」

『 なるほど』

「 キリストも、悪は人間の口から出てくるという意味のことを述べたと思います。」

『 その傷つけることにおいて虚偽という性格はどうはたらいているか。わたしもcurse(呪いのことば)の傷つける力については気になっています。 呪詛は嘘ではないし、また単なる罵倒と重ならないところもありますが…』

「呪詛よりも、噓の方が、相手に深い傷を与えることができる。呪詛はstatementとしては真実です。 相手に本心を明かしていますから、相手は防御も可能になる。」

『 逆に言うと、嘘は相手を防御不可能な土俵に引き込むということですか?』

「 そうだと思う。」

『 嘘は、それが嘘だったと判明したときに傷つけるのでしょうか。それとも、いわれのない勝手な決めつけが、自己の私秘的なものへの侵入が、ひとを傷つけるか』

「 相手を、なにが噓でなにが噓でないかが、わからない状態に陥らせることが、噓の致死力の本質では無いでしょうか。あるいは、相手の言葉の肉体を噓の網のようなもので包んで、身動きをとれなくしてしまうのかも知れない。」

『そういう嘘は、自分の記憶への信頼を喪失させますね』

「 むしろ防御のための噓もある。しかし、噓は触れれば手を切ってしまうカミソリのようなものなので、単なる防御に終わらせることが出来ない。それはおそらく噓を発する者の意図しないものでしょう。双方ともに傷つく。それが噓の怖ろしさ。」

「 自然が与える謎は科学を生みましたが、スピンクスの与える謎のように、人間を滅ぼす謎もある。実際には、受け取る側にとっては、噓と謎の違いが不分明なことが、人間的な錯誤の始まりかも知れません。噓には意図がありますが、噓をつかれる相手には、なにかの謎に思えてしまう。噓だと判断できない。」

『 そこには、言葉の微妙なところがある。言葉はつねに謎の性格を保持している。すなわち、ひとつ解釈に踏み込まなければ語の意義が示されない(たいてい、言葉は踏み込むべきところを開けておいてくれているようにみえるが)。たとえば文脈が、解釈のために踏み込むべきところを教える。 嘘は、解釈者が解釈において真相に踏み込んだときに、瓦解するような言葉の組み合わせであると言えそうである。逆に言うと、嘘をつく者は、踏み込まれる恐れのある真相を示唆する言葉を言わないでおく』

「 そのような謎めいた態度がむしろ効果的な噓の場の引力として働いて、彼は蟻地獄の底までずり落ちていき、すべての血を吸い取られてしまう。しかし彼はきっとそのとき恍惚とした表情を浮かべているに違いないのです。そうでしかありえなかった。」

『 まるで夢ですね』

    *

「まだ街が目を閉じているみたいですね。彼等が目覚めると、この街は消えてしまう。」

『ソドムとゴモラのように・・・』