アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

万視塔

それは昨日、或いは今日未明というべきか。私は意味のない濃淡の中に薄明の意識を照射していた。そこに秩序が生まれ、暗い単色の映像になる。繰り返し繰り返し、緩慢な遠近法の蛇行する道を背中を見せて歩み去って行く人々の姿。進んで行ったのか、それとも去って行ったのか。古代だったのか、それとも現代なのか。

裸の幼児が明るい澄んだ水のなかを顔を水につけたままどこまでも泳いでいく。息継ぎもしているようだ。水はどこまで深いのかわからない。危うげもなく泳ぐ。私は心配になり着衣のまま水に入る。ズボンが濡れてしまうことが気がかりだった。しかし幼児は水の世界を泳ぎ切った。私はズボンの替えの心配をした。

過酷な週だった。顎関節症が数年ぶりに再発して食事が苦痛になる。疲労もある。おそらく深夜に歯ぎしりしていたせいだと思う。今日は「最終日」で、普通の人生なら見ないで済んだはずのものを見た。自己欺瞞の最終形態としての「演技」にはもはや演技の自覚が無い。これはおそろしいものだった。

真の狂気には自覚がないということは本当である。そのことを思い知らされた。これよりのち彼が内側から腐ることは間違いが無い。それだけがわれらの希望である。どのような極刑よりも重い刑罰はすでに始まっている。魂が腐って死ぬことこそが本当の死なのだ。おまえはそうやって死ぬ。私は全てを見た。

『死後裁きにあう』。キリスト看板は正しい(おまえが知らないだけだ)。

   *

チューブから絞り出したような黒い飛行機雲が何本も空のそれほど高くないところに残っている。見上げていると本体が編隊を組んで頭上に現れた。そのなかの中心的な一機が地上につながるオレンジ色の火柱を引きずりながら通過した。

   *

表現も”共鳴現象”に他ならない。その際の主体(関与者)はほんとうは曖昧である。何(だれ)が、何(だれ)に、共鳴した結果、表現が成立するのか。そんなことをだれが知ろうか? そこに窓が開いていてだれかが入って行くわけでは無い。罠がしかけられていてそこに落ちるわけでもないのである。

要するに「そうではない!」。あらゆる否定の累積。それだけが「在る」。その形。その自由。穴でもなく窓でもない。形そのものと非実在反物質的背負い投げ。痛み。痛恨の形式までの時間。

Ist das Scherz oder Ernst ?
それは冗談? それとも本気?

最古の建物に閉じ籠もっていたうちは気づかなかった。新棟は”パノプティコン”らしかった。私はそのなかで發見されるべき存在なのであった。無言。相互監視(思想)の徹底。これに慣れてはいけない。歪んだ目が必要だ。この建物には曲線が無い!