アームチェア人智学日記 改

或る奴隷博士の告白

週刊誌の記事で読む津波体験

震災直後の数日間、テレビに釘付けで、津波に飲み込まれて行く世界の映像を見続けたが、結局映画を見ていることと同じで、どうしても実感がわかない。そのあげくに、チャンネルを回しては、より刺激的な映像を求めている自分がいた。一週間ほど過ぎて、テレビ番組が通常の編成に戻り始めてから、寝る前などに少しずつ、買い貯めた震災特集の週刊誌の記事を読み、写真を眺めるようになる。テレビを通して見る映像は、いわば冷酷な機械のような眼で、出来事を外から眺めている。ファインダーを覗く撮影者も、信じがたい光景を前に感覚を麻痺させるしかなかったのかも知れない。しかし、週刊誌の記者が取材した生き残った直後の人びとの体験談からは、その時の心の動きが伝わってきて、あらためてとんでもないことが起きていたのだと実感出来る。
週刊ポストには、著名人からの緊急メッセージもたくさん載せられている。私は、今のところ、こういうものは読む気が起きないので、出来るだけ眼を通さないようにしている。明らかに、こういう事態になると、当人の経済事情によって、潜在的原発難民としての今後の運命が分かれてしまうからだ。テレビ出演やベストセラーで儲かっている人には、いざとなれば「日本」を捨てる選択もある。特に、この期に及んでも原発推進を主張する強気な人びとに貧乏人はいないことに注意した方が良いだろう。彼らは、「日本」がなくても生きられる人たちだ。「日本」が自分にとってかけがえのないものであるのなら、この期に及んで原発推進を叫ぶことは不可能である。
非常事態なので、今までのいきさつにはともかく目をつぶって、挙国体制で一致団結しよう、と言うようなメッセージは、やはり、発した当人の狼狽ぶりを反映しているのではないかと思える。こういうときにこそ、信頼できるリーダーを日本は必要としている。素早く管総理を辞職させ、それこそ挙国一致内閣を再編成すべきだった。それが出来ないような経緯を作り上げたのは、検察の忠実な下僕に成り下がったテレビ・新聞の責任である。
私が共感したのは、芥川賞を受賞した西村賢太で、こういうどうしようもない辛い体験をしたときには、現実を逃避することも良いのだ、という言葉だった。ゲームでも、小説でも、何でも良いから、現実から逃げることも必要なのだ、と、控えめに語っていた。このところ、ラジオも、テレビも、妙に前向きで説教臭いメッセージが多く、正直言って疲れてしまう。被災した人にこそ、力の抜ける環境が必要で、妙に明るかったり、前向きだったりする、ある意味で欺瞞的な態度は、むしろ思いやりに欠けるのではないかと思う。そう言う自分も、ボログ(ブログか)で偉そうなことばかり書き散らしているが、それはこのどうしようもない環境で、自らを奮い立たせるための方便でもある。